Aiko's blog

今日も素敵なすてきな1日を*

■「誰よりも自分のため」 ■

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「自分のことばっかり考えてるようでいて、自分のことについて考えまくったからこそ、

他人の同じ悩みを解決したり、ヒントになることが言える人であれ!!」 

 

「自分の書いたものでその人の悩みや不幸を供養できるならば、むしろ率先して周りの人よりも、自分が悩み、幸せになるナルシストであるべきだ。」

 

共感する。

 

私は自分のことばかり考えている。
そういう人間は批判されやすいし、自分も責めやすい。
「他人のことを考えられない人間は…」と。

 

だけど、自分と他人をあまりにも区別して、
他人にだけ一丁前に偉そうな態度をとる人間にはあまりなりたくない。

 

「オレは、私は、あなたと違って、
悩まないし失敗しないし欠点がなくて完璧で人生も上手くいっている。

 

そんなオレ様が私様が、
あなたにアドバイスしてあげるわ。」

 

自分と他人を区別しすぎると、
こんなニュアンスが感じられたりもする。

 

自分と他人の境目って、あいまい。

 

人の役に立ちたいとか、
人に喜ばれたいとか、
人に与えたいとか、

 

そういうことなんだろうな。 

 

あなたが嬉しいと、私が嬉しい。
私が嬉しいと、あなたが嬉しい。

 

あなたが嬉しいと私が悲しい場合、
どこかに歪みがあるのだろう。

 

私が嬉しいとあなたが悲しい場合、
どこかに歪みがあるのだろう。

 

私とあなた、同じようで違う。
だけど違うようで同じ。

 

なのかもね。

 

そんなことを、こちらのブログ

ブロガーたるもの、誰よりも幸せ・誰よりも最先端を目指すべきだ!! - かくいう私も青二才でね

を読んで思ったのでした。

 

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■「与える」のではなく、「自分がしたいから」 ■

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「人に与えることが、成功のヒケツです」
とよく聞く。

 

他人のことを考える人がうまくいく、
他人に与える人がうまくいく、と。

 

確かにそうだろう。
素敵な人は、みんな他人に与え上手。

 

だけど、私は違和感がある。

 

「与える」ってなんか、おこがましいなぁって。

 

特に、自分自身がその言葉を使うときにそう思う。

 

自分は、人様に「与える」ことができるほど偉いのか?
自分は、「人様に『与える』ことができるほど立派で優れた人間」なのか?

 

至らないところだらけの自分が、未熟者の自分が、
人様に「与える」と意識する状態は矛盾していないか?

 

自分で自分の行為を「与える」と表現することへの違和感。

 

周りの人たちを見ても、心から人のことを考えていている人って、
自分の想いや行為を「与える」という言葉では意識していないんだろうなぁって思うから。

 

ただ自分がやりたくてやっている感覚。
ただ自然にやっているだけの感覚。

 

与えるのが上手い人って、
そんなナチュラルさにあふれている。

 

しかし私は自分のことをぎこちないな、とよく思う。


いつも色んな余計なことを気にし過ぎて、
不自然だなと思う。

 

自分が誰かに何かを「与える」という発想には、疑問が浮かぶことが多い。

 

「自分が得をしたいから、他人に与える(フリをする)」
「自分が成功したいから、他人に与える(フリをする)」 

 

のでは本末転倒。

 

だけど、私自身もだれかも、
勘違いしやすいように思う。

 

「人のため」と言っておきながら、
ただの自分のエゴの押し付けになることは非常に多いから。 

 

人のためじゃなくて、
結局自分のためだよなぁって思うことも多いから。

 

もちろん、言葉通りそのまま「人のため」「相手のため」
だなぁと思うことも沢山ある。 

 

だけど私は、エゴが強いし、他人に押し付けやすいし、
他人のせいにもしやすい。

 

だから、私はあらゆることを
「自分のため」だと意識していたい。できるだけ。

 

ぜんぶ、自分のため。
ぜんぶ、自分がやりたいから。

 

とね。

 

・・・・・

 

なお、「与える」という言葉を使っている人全てが
偉そうに見えるワケじゃない。

 

誰かどう発しているのかや、
発信者と受信者の関係などで印象は全く違うから。

 

単に分かりやすく説明をするために、
「与える」という言葉を使っているに過ぎない場合も多々あるだろうし。

 

「他人を思い遣る」
「他人の想いや背景を聴こうとする」

 

などの表現は、ある意味ぼやっとしていて、
伝わりにくくもあるから。

 

一方、「与える」という言葉は、
とっても分かりやすくて、伝わりやすい。

 

また、
「この人は心から『他人に与えている人』だなぁ。」と自分が感じる人が
「与える」という言葉を使用していても、なんの違和感もない。

 

それに、多少ぎこちなくても、
エゴが強かったとしても、

「与える」ということを意識すること自体が、
素晴らしいから。

意識すれば、近づいていくという側面もあるし。

 

まずはそうして、
他人のことを考える、見ようとする、聴こうとする意識が大切なんだろうから。

 

「与える」というのは、ただの言葉であり、
一つの表現でしかないとも言えるから。

 

だから、この言葉を使っている人たちのことを、
すべて否定したいワケではないし、
悪いなどと言いたいワケでもありませんので、

ご理解いただければ嬉しいですん。

 

同じことをしても、
「与えられているかどうか?」は

相手がどう受け取るかによっても、
全然違うだろうし。

 

どんなに「良さそう」なことをしても、
相手にとって「良い」とは限らないから。

 

頭でそう理解したつもりでいても、
実際はそんな「自分の良さの押し付け」になってしまうことも多いなぁ。

 

自分のため。自分のため。
私のため。私がやりたいからなだけ。

 

文章を書いて投稿するのは、
私のため。自分のため。

 

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■ 人に「与える」ということ ■

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先日、3万円を2人の方から投資いただいたことで、
考え始めたことがあります。

 

「私は人に『価値』を与えたから、
お金をもらえたワケじゃない」

「私が与えられる『価値』って何なんだろう」

「私が文章を書くことで、人に与えられる『価値』って何だろう」

 

ということです。

 

私は今回、2人の方から3万円を無償でいただきました。
そして過去には、20万円を1人の人からお借りしたこともあります。
その20万円はあと数回で、返済が終わります。

 

なぜ、この方たちが私にお金を与えてくれたのか? 

 

それが気になって、質問してみました。

 

返ってきた答えは、みなさんそれぞれ表現方法は違いましたが、


要は


「与える」精神


を大事にされていたからということでした。

 

それを私に向けてくださったことは、
とてもありがたいことです。 

 

けれどそれと同時に、
私がその人に、その人が必要なものを与えたワケではないということ。

 

私はその人に、
何か『価値』を提供したから、お金をいただいたワケではないということ。

それを理解しました。

 

ただ、心ある与える精神豊かな方に、
私が与えていただいただけ、ということです。

 

お金を一方的に善意でいただいたことで、

「自分が生み出せる価値」
「相手に与えられる価値」

ということについて、ぼんやりとですが、
考えるようになりました。 

 

私はまだ人にもらおうとしてばかりで、
もらってばかりで、
「もっと自信もったらいい」って言われるばかりで、
まだ自分のことばかりで、 

 

「人に純粋に与える」
ということができる人間に自分は少しでもなれているのか、
とても疑問だったりします。

 

けれど、いつまでも
「自信がない」「自分を認めることができない」
と言っても、それも言い訳や逃げの手段になってしまいます。

 

私は最近職場でよく、
「もっと自信もって」
と言われます。

 

なぜかというと、やはり私は
「失敗すること」「嫌われること」
を強く恐れているからだと思います。

 

でも、いつまでも自信がないとか自分を認めないままだと、
それを言い訳にして、

「他人のせい」
にできてもしまいます。

 

実際、私は、
人に依存し、人のせいにする思考が
昔からとても強いです。  

 

だけど、いろんな人のおかげで、
一歩一歩、前に進めています。 

 

自分で稼げるようになるには、
雇われて働く環境にいるときから、

 

相当な自立心や与える精神や人間力
養っていく必要があるんだろうなと思います。

 

私は、今のありがたい環境の中で、
一歩一歩成長していけたらいいなと思います。 

 

自立や与えるとは真逆のところに、
長い間いたから。

 

そんな人間が、
急に全てができるようにはならない。 

 

ゆっくり時間をかけて、
内面から小さなものを積み重ねていこうと思います。

 

・・・・・ 

 

私は、依存心が昔から強く、
すぐに何でも人に頼ろうとします。

 

いつも他人にもらうばかりで、
自分のことばかり考えていて、
そういう自分がすごく嫌でした。

 

他人のことを考えられる人、
他人に純粋な気持ちで与えられる人が、
とても羨ましかったです。

 

なんで、そんなに人のことを考えられるんだろう、
なんで、そんなに見返りを求めずに与えられるんだろうと。

 

自己愛と与える精神の大切さを説く方に出逢ってお世話になってから、
私は「与える」「人のことを考える」
という慣れない領域について、
少しずつ考え始めるようになりました。

 

そして、私は私なりに、
ほんとにちっぽけな
「与える」「他人のことを考える」
ということを、意識するようにもなりました。

 

私の周りにいる人たちは
みんなとってもあったかい人ばかりで、
お優しい人ばかりだから、

「愛子はそれでいいんだよ」
「十分だよ」

って言ってくださいますが、


ちゃんとその人の役に立っている実感もないし、
ちゃんとその人に心から喜んでもらえている実感も薄いです。 

 

でもそれは、
「何かもっと大きなことをしなければ」
「何かもっと具体的なことをしなければ」
と考えているからかもしれないし、

 

自分が自分を認めてあげることにも
まだ抵抗があるからかもしれません。

 

相手の優しさとか、相手の慈悲の心から、
相手に言わせているんじゃなく、

自然に相手が
「ありがとう」
「あなたのおかげ」
と思ってもらえるような段階に成長できたらいいなと思います。

 

「あなたのおかげ」とわざわざ言われることや思われること自体を目指すのではなく。

 

人に言わせるのじゃなく、それを期待するのではなく、
自然に思ってもらえるような状態。

 

自分が自分らしく生きているだけで、
誰かの力になれたら、
「与える」という意識すらなくなるんだろうなぁ。

 

意識してないのに、自分らしく自分がやりたいことをやって、
自分のためはもちろん、人のためにもなれたら、
すごいなぁ。

 

でも、私の周りにいる与える力が豊かな人たちは、
みんなそんな人だ。

 

誰かを愛することも、
他人のことを考えることも、
自分がやりたいからなだけだよって。

 

「与える」という意識ですらないんだなぁって。

 

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■ コトバひとつ、単語ひとつで、壮大な物語が見えてくる。 ■

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本や小説が読める日は、私にとって調子が良い日。

 

中学生くらいまでは、本が好きでよく読んでいた。
だけどそれ以降は「楽しむための読書」からは、ずいぶん離れていた。

活字に対して、強烈な拒否感、抵抗感、嫌悪感しかない時期もあった。
本が好きなのに、読むことができないのは寂しかった。

 

今は、おかげさまで精神的にカナリ改善されてきたから、
気が向いたときだけ、ほんの少しずつだけれど、
本を再び読むことができるようになっている。

 

楽しむための、読書をね。

 

・・・・・

 

そして今日は、ありがたいことに、
読書デーとなった。

 

お相手は、笑いたっぷりのコミカルエッセイ。

 

わくわく。楽しんで読むぞう!

 

心の中で笑う準備を整え、
軽快なスタートを切った私の読書デー!

 

・・・のハズだったのだが。

 

読み始めて間もなく、
青函トンネル
という単語に出くわす。

 

どんなトンネルなのか気になって、
iphoneでいつものように検索する私。 

 

教えて!グーグルせんせーい。

 

芋づる式に、気になるキーワードを次から次へと引っ張り出す。
読んでいた本はそっちのけ。

 

青函トンネル

青函トンネルの歴史(世界一長い海底トンネル)

殉職者(工事中に亡くなった作業員の方)

インフラ建設の闇

JR福知山線事故

事故被害者のインタビュー

福知山は、京都府の北に位置する

 

「・・・うおお。。今私たちが乗っている電車のトンネルは、
たくさんの犠牲者の上に成り立っていたのか。。」

 

秒速で刺激される私の有能な涙腺。

 

「福知山って、私の住んでいる京都にある場所なんだ。。」

 

急にリアリティが増す。

 

コミカルなエッセイ本を読み始めたはずなのに、
いつの間にかシリアスで壮大な人生物語にたどり着いていた。 

 

読んでいた本の中では重要ではなかった、
たったひとつの
青函トンネル
という単語が気になってしまったために。

 

そこからいろんな歴史を知り、
私たちが当然のように今使っているもののありがたさを感じた。 

 

じんわりした想いを文章を書こうと思い立ち、
こうしてPCのキーボードをカタカタとたたいている。

 

気づけば、本自体は、たった2ページしか読んでいなかった。

 

しかし、結果的には
「とても充実した読書」
となった。

 

笑いの代わりに、深くて大きな愛を感じることができた。

 

読み始めて間もなく2ページ目で出逢った
ひとつのコトバ。

 

何気なく、使われていたコトバ。

 

当然のように毎日、使っている電車。

 

当然のように思っている、身の回りのあらゆる存在。

 

本と現実がつながった瞬間(とき)でした。

 

・・・・・

 

うむ、やっぱり生きているだけですごい!

おめでとー!

 

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■ 今いる環境を、どれだけ活かすか - 今日のじぶん、すごい!- ■

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自分のやりたいことや、好きなこと、興味のあることは、誰だって向上心がある。

 

だけど、
自分の願望とは「直接は関係ないもの」
については、
いい加減にしてしまいがち。

 

例えば、

今現在、「生活のため」にしている仕事の分野と、
将来、「自分が好きなこと」で仕事にしたい分野が、

 

直接は全く関係ない(ように思える)とき。

 

自分のやりたいこととは関係ないとか、
興味がないからといって、 

 

今現在の仕事をなあなあに済ませることは簡単。

目の前のことをテキトーにすることは簡単。

 

けれど、一見関係ないように思えることも、
全てつながっていたりする。

すべてが自分のために活きてくる。

 

偉そうに書いているけれど、
私は何も、できた人間の視点では書いていない。

 

未熟者の視点で、自分自身について書いている。

 

私は今の職場で、
本当にいろいろと学ばせていただいているから。

今の職場で、
すごく成長できる機会をいただいているから。

 

至らないところだらけな自分だけど、
ココで一つ一つを見つめていくことが、
今の自分にとって、とても大切なんだなぁって実感しているから。 

 

綺麗ごとなんかじゃなくて、
本心でそう思っているから。

 

それだけ、自分と向き合わせられているから。
今の職場で。
愛のある職場の方々のおかげで。

 

私にとっては、
今ココでやっていくことが、

未来の自分にとって大きな財産になるんだ。

 

今ココを活かすことが、
自分の財産になるんだ。

 

今ココを積み上げることが、
なりたい自分になっていくんだ。

 

そう素直に思えるのは、
私をあたたかく見守って受け入れて応援してくださる人たちのおかげ。

 

綺麗ごとじゃなくて、
心からそう思う。

 

・・・・・

 

ミスしたりヘマすると、
どうしても凹んだり引きずってしまいがち。

ネガティブで頭がいっぱいになりがち。

「やっぱり私はココにいない方がいいんだ・・・」
って思ってしまいがち。

 

だけど、それでも、
また明日お仕事に行ってみること。 

 

なんとか、また一日行ってみること。

 

ひとまず、また明日もお仕事に行ってみること。

ひとまず、また今日もお仕事に行ってみること。 

 

そうやって、まずは「もう一日」行ってみるということが、
私にとってはとてもとても大きな一歩だ。

 

今日も、家を出られて良かった。
今日も、お仕事に行けてよかった。

 

今日も、家を出られた私、すごい。
今日も、お仕事に行った私、すごい。

 

今日も、家を出たあなた、すごい。
今日も、お仕事に行ったあなた、すごい。

 

すごいぞ私。すごいぞあなた。

 

だけど、
家を出られなかった過去の私も、
どこかの誰かも、

生きているだけですごい。

 

そこで否定したって責めたって、
余計苦しくなるだけだから。

 

こうやって褒めたり承認するのを批判ばかりする人のことは、気にしなくていい。

 

自分の心に聴けばいい。

 

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■ 清濁合わせ持ってナンボ ■

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「良い状態」に固執すると苦しくなる。
「良い状態」を強制されると苦しくなる。 

 

「ポジティブ」に固執すると苦しくなる。
「ポジティブ」を強制されると苦しくなる。

 

ネガティブ=悪いという考え方でいると、
苦しくなる。

ポジティブ=良いという考え方でいると、
苦しくなる。

 

最近の私は、ネガティブになっても、
苦しいという感覚はあまりなくなっている。

 

ネガティブが悪いとは限らないと思っているから。
ポジティブが良いとは限らないと思っているから。

 

無理やりポジティブになろうとか、
無理やり良い状態になろうと思っていないから。

 

そのままの自分の感情や状態を受け入れよう、
と意識するようになったから。

 

ネガティブは、自分の本音や本心を教えてくれるものだと思っているから。
ネガティブは、自分が求めているものが何か?を教えてくれるものだと思っているから。

 

ネガティブは、自分が望む道を教えてくれるものだと思っているから。
ネガティブは、もっと良くなるためのヒントだと思っているから。

 

ネガティブは、ポジティブの裏返しだと思っているから。

 

どんな感情や状態も、

 

「あー、今わたしはこう思っているんだなぁ。こう感じているんだなぁ。」 

 

と自分で受け入れられるようになってきたから。

 

その感情や状態を、
自分自身で「良い/悪い」とジャッジしないようになってきたから。

 

「悪い」と思ったとしても、
それさえも受け入れて感じることができるようになってきたから。

 

・・・・・

 

ポジティブ(と誰かに判断される状態)に固執すると、
ネガティブ(と誰かに判断される状態)な自分を全否定する感覚になって苦しい。

 

良い状態(と誰かに判断される状態)に固執すると、
悪い状態(と誰かに判断される状態)の自分を全否定する感覚になって苦しい。

 

(誰かとは、他人でもあり自分でもある。)

 

これだけが良いとか、これだけが悪いという限定的な思考で居ると、とても苦しくなる。

 

なぜなら、どちらも持っているから。

 

境界線はあいまいだから。

 

そんな自分を受け入れた今の私は、
とっても生きやすい。

 

他人や自分の「良い/悪い」という判断基準を、
一度とっぱらってみるのはいいかもしれない。

 

もちろん、それだって良いか悪いかなんて分からない。

 

ただ私は、清濁どちらの自分も受け入れられるようになってから、生きやすくなった。

 

どんな自分も受け入れようと意識するようになったから。

 

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■ 他人に言うことは、自分にも当てはまる ■

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ぜんぶ自分 。

 

あの人、この人、その人。
わたし、あなた。

 

ぜんぶ、自分のこと。


そう思って、見たり聞いたり、言ったり書いたり、感じたりしよう。したい。できるだけ。

 

私は頑固だから、言うは易く行うは難しなのだ☆

 

かといって「そうだよキミは頑固だからね!まったく!」と思う人は、自分の頑固さに気づいていないのかもしれない。

 

・・・・・

 

 他人に言うことは、自分にも当てはまる。

 

それを忘れると、
人は他人のせいにばかりする。

 

他人の欠点ばかり指摘するようになる。
自分自身の欠点はまるで何もないかのようにして。

 

「あなたのココが悪い」
「お前がダメなんだよ」

と。

 

じゃぁ自分はどうなんだ?

 

という視点がすっぽ抜けていることは多い。

 

また、

「屁理屈を言うな」
「揚げ足を取るな」

という反論は、
どんなときにも使える。

 

自分の都合が悪くなったときに
その反論をすれば、
自分の非を認めずに済む。

 

あなたが悪い。
お前が悪い。

 

相手が悪い。
相手がおかしい。


相手のただの屁理屈。
相手のただの揚げ足とり。

 

自分には一切、
非はない。

 

自分には一切、
当てはまることはない。

 

そういう姿勢が1番どうしようもない。

 

だけど、私自身はもちろん、
あの人や誰かだって、
そういう状態に陥ることがなんと多いことか。

 

気づけたり、
認められるなら、

まだ未来は開ける。

 

自戒を込めて。

 

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