■ お金を稼げない人の特徴 ■
お金は価値との交換。
稼げない人にとっては、
その「価値」というのがネックなのだ。
自分はそんな価値を生み出せない、提供できないと思っているから。
自分はそんな価値をいただいて良い存在だと思っていないから。
もし価値を生み出せたとしても、
お金をいただく価値のない自分は価値を受け取ることができない。
価値のない自分は、
価値のあることを生み出せない。
価値のない自分は、
誰の役にも立たない。
価値のない自分は、
価値のあるお金をいただけない。
役に立ってもいただくことに抵抗がある。
「他にもっと価値のある人がいる」
「他の人がいただいた方がいい」
「お金なら他の人に払った方がいい」
「自分じゃなくていい」
「自分はボランティア程度が似合っている」
「自分は価値をいただく価値がないから」
「他の人に『あんなのでお金をもらっているのかよ』と否定されるのが怖いから」
などと決めつけている。
いただくことに申し訳なさが伴う。
たとえ、実際に誰かの役に立てたり、
誰かに喜んでもらえたとしても同じ。
そこでお金を差し出されても、
「嬉しいし、ありがたいし、お金は欲しい。
だけど、自分なんかに申し訳ない。」
と感じる。
差し出されたお金はお返しするか、
恐縮ながらいただくかのどちらかだ。
もちろん私もお金はとても欲しい。
貯金なんてずっとゼロ円に等しいし、
クレジットカードの返済が溜まっている。
だけど、稼ぐ意欲がない。
稼げる方法を知っても、
それを続けることが苦痛になる。
やりたいことで稼ぐほどの意欲もない。
そこまでしてやりたいこともない。
いつも自分のことばかり考えている。
他人に価値なんて与えられない。
与えられたとしても、
自分はそんな価値を受け取れないと抵抗する。
そうやって、
欲しいけど、諦めていくのが多くの人なのだ。
だけどそれでも、
みんな大なり小なりお金や価値をいただいている毎日。
そうじゃなきゃ、
みんな今生きていない。
抵抗があっても、いただいていることは事実なのだ。
お金(価値)は、与える側も受け取る側も、
「お金を払う価値がある」
「お金を受け取る価値がある」
という前提の上で、行き来が成り立つ。
どちらにも、価値があることを認めていなければ、
お金の行き来は難しい。
払う価値がないと見なせば、ストップ。
受け取る価値がないと見なせば、ストップ。
働けばお金をもらえているのは、
国が制度として決めてくれているから。
制度がなければ、
お金の流れはストップしやすくなる。
それは、
「誰かには価値があって、誰かには価値がない」
と決めつけているから。
誰にも価値がないなら、
何にも価値がないなら、
お金という価値は誰にも与えられない。
何かに価値があるから、
お金が誰かに与えられる。
だけど、
貧困地域に住んでいる人たちも、
ニートや障害者や病人や犯罪者と呼ばれる人たちも、
誰かから支援されていたりする。
貧しい人たちに、誰かがお金を払っている。
それは、
「お金を払う価値がある」
「お金を払って支援する価値がある」
と認められているということ。
ということは、
貧しい人たちだって、どこかでだれかが「あいつなんて・・・」とぼやいている誰かだって、
「価値がある」
という意味になるのだ。
・・・・・だんだん話が本題から逸れてきた。。
お金ももちろん沢山欲しいけど、
好きな人と愛し愛され穏やかに暮らすのが何より豊かだ。
お金と愛どちらが大事なんて質問はナンセンスで、
たぶんどちらもあるからこそ豊かなんだろう。
お金があっても一人ぼっちなら楽しくないし、
愛があってもご飯が食べられなければ苦しいもの。
お金も食べ物も愛も、あるところには有り余ってるのに、
なんで全員に回っていかないんだろぉ〜。
好きな人を独り占めしたいのと同じなのかなぁ。
人間ってそういう生き物なんだろうな。
大切なものは自分だけのものにしたいんだよね。
大切なものは自分だけになってほしいんだよね。
浮気症の人だって、自分の女は自分だけの存在でいて欲しいと思ってたりするもんね。
ある部分では「共有すればいい」と思っていても、別の部分では「自分だけのものにしたい」と思っていたりするのが、私たち人間なのかもしれない。
分からないけど!
いつものことながら、話がずいぶん飛び飛びで逸れたところで終わり〜☆
■ 沁みるこころ ■
つらいときに沁みる優しさ。あたたかさ。
だけどそれは、
日ごろから、私に対して真剣に真摯に向き合ってくれた人だからこそ。
私のことを無下に扱っていた人に、
弱っているときだけ優しい素振りを見せられても響かない。
そんなのはただの
「弱さにつけこんだコントロール」
だから。
弱い人間だからこそ分かる。
弱っているときが一番、影響を与えられると。
だから弱っているときこそ、気をつけようと。
恋愛やビジネスもそう。
弱っているときに優しくすれば、
相手に入り込みやすい。
弱っているときにセールスをかければ、
商品を買わせやすい。
弱っているときに優しくされれば、
相手にひかれやすい。
弱っているときにセールスされれば、
商品を買いやすい。
弱い人間だからこそ、体感できる。
身に沁みる人の優しさとあたたかさ。
それは、
今まで私のことを大切に想って、大切にしてくれてきた人たちだからこそ沁みる。
もちろん、弱っているときは、
見知らぬ人やそんなに関わりがない人など、
いつもはあまり意識しないような対象も
改めて「ありがたい」と感じられる。
愛と優しさとあたたかさをありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
ちぎれそうな糸が今つながっていられるのは、
あなたの想いやりのおかげ。
1人1人の想いやりのおかげ。
本当に今の私は周りの素晴らしい方々のおかげで存在しています。
■ 好きな人だからこそ嬉しい ■
「ミラーリング」という心理テクニックがある。
日常的に誰もが無意識にやっているし、
恋愛やビジネスで意図的に使う人も多いテクニック。
基本的で初歩的だけど、効果が十分あるから
よく使われている。
ただ、このテクニックを意識的に使う場合は
「適度」
で留めなければ、逆効果になるので注意。
小手先のテクニックなんてものは、
なんでも「適度」が大切。
究極、必要ない。
ミラーリングにしてもそう。
あまりしつこくやると、
確実に相手に引かれる。
好きな人だったら、
いくらでも嬉しい。
好きな人だから嬉しい。
だけど、好きな人じゃなければ
作為的なテクニックは逆効果にもなりやすい。
作為的、表面的なことより、
まっすぐな心が何より響く。
とはいえ、どんなにまっすぐでも、
相手が自分を好きになるとは限らない。
元も子もないことを言えば、
テクニックを使おうが使わまいが、
まっすぐだろうと歪んでいようと、
好きなもんは好きだし、
好きじゃないものは好きじゃない。
ただそれだけ。
■ 弱い犬ほどよく吠える ■
他人のことばかり強く批判したり、攻撃する人って、
弱い人たちなんだなーと実感するようになった。
弱い人をいじめるのは、弱い人。
強い人は、自分が強いのを十分知っているから、
誰かをいじめる必要がない。
いじめないと気が済まないのは、
自分の弱さを認められないから。
誰かをいじめているうちは、
自分の弱さを見ずに済むから。
誰かをいじめていれば、
自分は強いんだと錯覚できるから。
弱い者をいじめることでしか、
強くいられない。
誰かをいじめる人は、
自分よりも格上の人間には媚びへつらう。
いじめをする人間は、
自分より強い者をいじめようとは決してしない。
強い者のことは、いじめることができないから。
強い者をいじめようものなら、
今度は自分がいじめられる弱者になるから。
そんな弱い自分を認めたくないのだ。
自分がいじめる弱い他人と、
強い者にいじめられる弱い自分は、同じ。
・・・・・
他人に「弱い」と判断されやすい人は、
実は強かったりする。
他人に「強い」と判断されやすい人は、
実は弱かったりする。
本質的には
みんな、強いし
みんな、弱い。
そう感じる。
表面の外ヅラを、
どう見せているか?
どう判断されるか?
の違いなんじゃないかな。
・・・・・
わたくしは弱い人間ですから、
これからもキャンキャンと吠えますよ。
吠えたいときはね。
それにつられて、
周りの弱い方々もキャンキャン吠えてたりするのよね。笑
自覚症状ないけど。
(私も他人につられて吠えること多々。)
みんな自分は、強い大型犬だと思い込んでる。
あちらこちらで、キャンキャンキャンキャン。
・ベッキー不倫→「キャンキャン!」
・西野さん絵本無料→「キャンキャン!」
・あの人が~なことしてる→「キャンキャン!」
・そんなことするのはダメだろ→「キャンキャン!」
・・・うむ、みんな元気でいい。
だけど残念ながらわたしたちは、
海や空や大地の力で簡単になぎ倒されるようなちっぽけな存在なのだー。
よわい。よわすぎるぅ~。
今日もわたしは生きている。
今日もあなたは生きている。
■「俺の言うことが聞けんなら出て行け!」■
そう言った父は、おじいちゃんによく似ていた。
たばこのヤニの匂いが染み付いた家に住んでいたおじいちゃんは、典型的な亭主関白。
支配的ですぐ怒鳴る。
父が嫌いだった。
けれど私も、
父に似ていることに気づいた。
卑屈で言い訳がましいところとか、
よく似てる。
怒りは抑圧してきた。
自分が嫌な思いをしたからこそ、
他人には怒りをぶつけないようにしてきた。
表情に出さないように、
他人にぶつけないように。
その分、自分の内側で怒りが爆発していた。
怒りを外側に表せる人がとても羨ましかった。
私もガタイのいい男だったら、
ムカつくやつをボコボコにしてみたいなーなんてことも思う。
文章なら、感情をぶつけやすいんだけどな。
■ お金が得られなくてもそれをやるか。つながりがなくてもそれをするか。■
SNSやブログで情報発信するのは、
結局自分のため。
他人目線に立った記事も、
他人に役立つ情報も、
結局は発信者本人が、
お金やつながりを得るため。
お金が発生しなかったら、
今の情報発信を続ける人は減るだろう。
つながりが発生しなかったら、
今の情報発信を続ける人は激減するだろう。
どこかで自分が他人からお金をいただこうと思っているから、発信している。
あるいは、どこかで自分が他人から
共感や支持やつながりを得ようと思っているから、発信している。
お金やつながりが不要なら、
他人の目に触れる場所にはそもそも投稿などしない。
自分1人で日記にしたためていればいいから。
だけど、お金を得ようと思うのも、
つながりを得ようと思うのも、
何も悪くない。自然なこと。
ただ、人のためだけにやっている人なんていないんじゃないかなってこと。
ただ、そういうものだよねっていうこと。
私も誰かも。
私は、文章を書いて、
誰かに共感されたり、誰かの心に響いてもらえたりするときがとても嬉しい。
基本的に、自分が書きたいこと伝えたいことを書いているだけだけど。
たまに誰かに響くなら、それがラッキーなのだ。
お金は、自分が本気で望んだり、
そういう段階の自分になったときでいいかなぁとぼんやり思っている。
「そんなんじゃ一生…」などと言う人もいるだろうけど、
発言力の強い他人に従って、無理やり稼ごうとか行動しようとする方が、おかしな方向にいくから。
マイペースでいいのだ。
バカボンなのだ。
■「誰よりも自分のため」 ■
「自分のことばっかり考えてるようでいて、自分のことについて考えまくったからこそ、
他人の同じ悩みを解決したり、ヒントになることが言える人であれ!!」
「自分の書いたものでその人の悩みや不幸を供養できるならば、むしろ率先して周りの人よりも、自分が悩み、幸せになるナルシストであるべきだ。」
共感する。
私は自分のことばかり考えている。
そういう人間は批判されやすいし、自分も責めやすい。
「他人のことを考えられない人間は…」と。
だけど、自分と他人をあまりにも区別して、
他人にだけ一丁前に偉そうな態度をとる人間にはあまりなりたくない。
「オレは、私は、あなたと違って、
悩まないし失敗しないし欠点がなくて完璧で人生も上手くいっている。
そんなオレ様が私様が、
あなたにアドバイスしてあげるわ。」
自分と他人を区別しすぎると、
こんなニュアンスが感じられたりもする。
自分と他人の境目って、あいまい。
人の役に立ちたいとか、
人に喜ばれたいとか、
人に与えたいとか、
そういうことなんだろうな。
あなたが嬉しいと、私が嬉しい。
私が嬉しいと、あなたが嬉しい。
あなたが嬉しいと私が悲しい場合、
どこかに歪みがあるのだろう。
私が嬉しいとあなたが悲しい場合、
どこかに歪みがあるのだろう。
私とあなた、同じようで違う。
だけど違うようで同じ。
なのかもね。
そんなことを、こちらのブログ
ブロガーたるもの、誰よりも幸せ・誰よりも最先端を目指すべきだ!! - かくいう私も青二才でね
を読んで思ったのでした。