Aiko's blog

今日も素敵なすてきな1日を*

■ 比べるから素晴らしい。違うから素晴らしい。 ■

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ものごとは何でも、

 

善と悪、白と黒、上と下、0と100、マイナスとプラス、右と左、美と醜、ネガティブとポジティブ、強さと弱さ、苦と楽、生と死、愛と恐れ、陰と陽・・・

 

といったように、

 

反対のものを併せ持つ
両方を受け入れる
どちらも自分にあると認める 

 

からこそ、いろいろと見えてくるし生きやすくなるんじゃないかなって思う。

 

(ちなみに、例えば白が善とは限らないし、黒が悪とは限らない。ネガティヴが悪とは限らないし、ポジティブが善とも限らない。 

 

白と黒、どちらも悪にも善にもなりうる。
ポジティブとネガティヴ、どちらも悪にも善にもなりうる。

 

さらに言えば、悪は善にもなるうるし、善は悪にもなりうる。) 

 

比べず生きていたいと思うのは、
「比べる」ことの「陰」の部分を意識したとき。

 

だけど、比べることには「陽」の部分もある。

 

比べるからこそ、自分や他人の違いが分かる。 特徴が分かる。
比べるから、自分や他人の良さが分かる。

 

全員が全く同じ人間だったら、
誰一人として自分の特徴などなくなる。

 

全員が全く同じ人間だったら、
自分の「得意」「不得意」もなくなる。 

 

男の人がいるから、女の人は自分の違いを意識する。
女の人がいるから、男の人は自分の違いを意識する。

 

全員が男だったら、女はいない。
全員が女だったら、男はいない。

 

男と女という区別や違いもなくなる。

 

誰かが不得意だから、誰かが得意になる。
誰かが得意だから、誰かが不得意になる。  

 

全員が不得意なら、得意な人はいない。
全員が得意なら、不得意な人はいない。

 

得意・不得意という区別や違いもなくなる。
全員が得意なら、それは得意とは言わないから。
全員が不得意なら、それは不得意とも言わないだろうし。

 

違いがなければ、全て同じ。
全て同じなら、違いはない。どれも同じ。

 

・・・・・だけれど結局、
どちらか一方の特徴「だけ」を持っていることは少ない。

 

反対のものを常に誰もが、何もが、
持ち合わせている。併せ持っている。 

 

女の人の中には、男っぽい一面が必ずある。
男の人の中には、女っぽい一面が必ずある。

 

これも、「女」と「男」という区別をするからこそ、生まれる概念。

 

光の中にも、影がある。
影の中にも、光がある。

 

光があるのは、影があるから。
影があるのは、光があるから。

 

よく言われる例えだけど、これも光と影という違いを意識するからこそ、生まれる考え。

 

違うんだけど、みんなどちらも併せ持っている。

だから結局、同じとも言える。

 

影と光、どちらも私。
影と光、どちらもあなた。

 

私とあなた。

 

私と私。

 

あなたとあなた。

 

影と光である。
光と影である。

 

影と影である。
光と光である。

 

どちらも私。


どちらもあなた。

 

私。あなた。

 

私とあなた。

 

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■ 人と比べず生きていたい。誰もが自分が1番。 ■

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誰かが
「こんなことがあって悲しかった」
と嘆いていたら、

 

「オレの方がこんなに辛いことがあった」
「私の方がこんなに苦しいことがあった」
と主張したくなる。

 

誰かが
「こんなことができて嬉しかった」
と喜んでいたら、

 

「私の方がこんなに凄い結果を出した」
「オレの方がこんなに凄いことを成し遂げた」
と主張したくなる。

 

そういう心の動きは、
実は日常的に、無意識に、頻繁に生じている。

 

私自身もあなたや誰かも。

 

私の経験や想いや結果というのは、
私1人のマイワールドでは、
唯一無二の存在。
誰とも何とも比べられないもの。

 

けれど、人と比べてしまえば、
正直私には何一つ飛び抜けたものなどない。

 

誰かを見たり誰かの話を聞いては、

 

「どーせ私はそこまで苦しい経験なんてしてないし」
「どーせ私はそこまで秀でた結果なんて出したことないし」

 

といちいち卑屈になるクセ。

 

人を見下すことも、人に見下されることも、
どちらももうお腹いっぱい。

 

それなのにまだまだ、こびりついている頑固なクセ。

 

ほんと、不必要でいらないもの。
ほんと、どーでもいいこと。

 

どうでもいい価値観の世界から、
これからも少しずつ、抜け出していこう。

 

比べる他人も比べる自分も、
しっかりと受け入れながら。

 

比べることをゼロにすることはたぶん難しいし、ゼロにする必要もないだろうけど、
もっと楽になれたらいいなって思う。

 

でも少しずつ色んなことを受け入れて認めて手放せるようにもなってきたし、自己肯定・自己受容もできるようになった。

 

だから前よりカナリ楽。

 

・・・・・

 

今の職場もあたたかい愛のある人たちばかりで、本当に日々救われている。

 

私はどこにいっても、どんくさいし、すぐ忘れるし、すぐ頭が真っ白になって飛ぶしフリーズするし、冗談抜きで頭の回転が超遅いし、ふつーの人がすぐに理解できることが中々理解できないことが多くて他人の時間と労力を奪ってしまうし、他人が当然のように持つ常識のような感覚と私の感覚はだいぶズレているらしいこともあって周囲の人を困らせたりする。

 

別にこういった特徴は、もちろん私だけに限ったことではないけれど、
「仕事」という環境においては、いつも自分の存在理由を見失いがち。

 

プライベートではただ存在しているだけでいいかもしれない。

 

けれど、仕事という環境の中では、
利益に貢献する必要があり、
求められている役割や作業をこなす必要がある。

 

ある一定の求められている基準までは最低限、全員が役割を果たす必要があるのが仕事。

 

そこで
「私はどんくさいし、すぐ忘れるし、頭が悪くて中々理解できないから、求められている基準を満たせません」
という『言い訳』は許されない。

 

「それが仕事で、それでお給料が発生するんだから、できないんなら、言い訳するなら、
今すぐ辞めろ代わりはいくらでもいる。」
というお話になる。

 

私のような人間は、
ひたすら単純作業だけするような工場や事務の仕事に就いていれば良いのだろうけれど、

そういうところでずっと働いていると頭が狂いそうで、ずっと閉じ込められていて、嫌で仕方なかった。ただのワガママと言えばそうだ。

 

かといって、少しでも臨機応変さや柔軟さがスピーディーに問われる仕事では、
私の短所がすぐに姿を現して
「キミはここに存在しないほうがいい」
「キミはここでは無価値だ不必要だ」
と強く訴えてくる。

 

比べなくていいとはいえ、
仕事では一定の基準を全員がクリアすることが求められる。

 

あの人はできてるけど、この人はできなくてもいい、というワケにはいかない。
(単純に仕事としてという意味でも、人間関係という意味でも。)

 

だってそれは、仕事だから。

 

自分の裁量次第でどうにでもできる起業をすればいいとはいっても、
実際のところ生活できるレベルまで自力で稼いで、稼ぎ続けるというのは、生半可なものじゃない。今の私にはそういう意欲がない。

 

このような今の私には、
とにかく今のありがたい恵まれた職場環境で、

少しでもできることを増やし、
少しでもミスを減らし、
少しでも貢献できることを増やし・大きくし、
少しでも過去より今の成長を増やす・大きくすることしかない。

 

言葉で言うだけなら簡単だしすごく綺麗だけど、
実際は本当にどうしようもなく些細で小さくて失敗だらけの毎日なのだ。

 

本当に今はいろんな人と環境に恵まれていて、
失敗だらけでも見捨てずにいてくださるから、
くじけそうになっても前を向いていようと思えるし、
これからもゆっくり、ここで自分を成長させていけたらいいなって思う。

 

「『〜したい』『〜できたらいいな』『〜と思う』という言い回しなんかじゃ覚悟足りない、そんなの達成できない」っていうエリート思考は、今の私には必要ない。

 

・・・・・

 

自分よりも色んな意味ですごい人なんて、
腐るほどいる。
むしろそういう人の方が圧倒的に多いという事実。

 

その事実を、もっとしっかり受け入れて認めていこう。
その上で、私の世界・マイワールドの経験、想い、結果をしっかり認めてあげよう。

 

それができ始めると、なんだかとても健康的に生きていける気がする。

 

誰もが、自分が1番。

 

ただ一つ自分の世界の中で、唯一無二の1番の存在と想い。

 

それでいい。

 

かっこいいようなこと書いちゃったけど、
あくまで内側にある世界の意識の話。

 

・・・いつものように話がどんどん逸れて飛んでいきました。私は何を書こうとしていたのだろう。ココはどこかな。宇宙のようだ。終わり。

 

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■ 真面目メガネくん、松岡修造にやる気ないバイト。そしてギャル。~「あったかい/つめたい」をめぐる物語~ ■

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A子:「なにコレ?超~あったかぁ~いんだけどぉ〜〜〜。」

B子:「ほんとだマジうけるぅ~。超~つめたぁ~い。あったかぁ~い。」

 

真面目メガネくん:
「こらこらそこの君たち。そんなハシタナイ日本語を使うのはやめなさい。
正しいのは、『あたたかい』『つめたい』ですよ。まったく僕には考えられない言葉づかいですね。」

 

やる気ないバイト:
「あー今日もバイトかったりぃー。自販機いかがっすかー。あったかーい。つめたーい。
あー誰か可愛いねーちゃん俺のフタを・・・(以下略)」

 

松岡修造:
「気合いだ!あったかい!つめたい!
いち、に、さん、だー!!(アニマル浜口アントニオ猪木がなぜか混ざる修造。)」

 

・・・・・

 

まず言いたい。修造さん。
私の乏しいユーモアセンスは貴方のおかげで助かっております。ありがとうございます。アーメン。合掌。無宗教。

 

…そんなこんなで自分の文章を見返していたら、
「あったか~い/つめた~い」が

 

『語尾を不必要にのばすギャル』

 

に見えてきた愛子ですこんばんは。

 

松岡修造とやる気ないバイト、という話の流れから、
「あったか~い。つめた~い」を読むと、
語尾を不必要にのばすギャルに見えてきてしまったのです。
天然系ほんわか女子でもいいか。

 

ついでにそこから
「あったかい。つめたい。」が真面目メガネくんにも見えてきた。
メガネのフレーム位置を指で不必要にキリキリッと正す真面目メガネくん。

 

なんだかネタにできそうだなと思い、試しにちょっとだけ書いてみた。(自己満足)

 

これ以上書く意欲は、ない。

 

今日も野菜たっぷりあったか~いポトフが美味しかった。


「コンソメスープ」じゃなくて「ポトフ」って言いたいだけ。それだけ。

 

ぽとふ。

 

終わり。

 

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■ 冬にはあったか~い飲み物を。 ■

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小中学生くらいのとき、自動販売機の
「あったか~い」「つめた~い」

「~」に違和感を抱いていたころが懐かしい。

 

なぜ「あったかい」「つめたい」にしないのか。

なぜ「あたたかーい」「つめたーい」じゃなく、
わざわざ、にょろにょろ棒「~」にしたのか。

 

いや、なんとなく分かるんだよ。

 

「あたたかい」「つめたい」じゃ、あまりにそっけないと言えばそうだ。
それでは個性がなくて惹きつけられない。

確かにそうだ。

 

うん、もっと、温度感を主張したいと。もっと消費者に寄り添いたいと。
もっと買いたくなるような温度感を示したいと。
寒そうなそこのアナタ、これを飲めばあたたまりますよと。

 

けど「あったかい!」「つめたい!」じゃ、松岡修造みたいで暑苦しいし。
距離感近すぎる。ちょっと落ち着いてほしい。こっちは落ち着いて飲みたい。

 

とはいえ、「あったかーい」「つめたーい」じゃ、やる気なさすぎ。
いやもう、寒過ぎて売る気がない感じ?

 

「あー今日もバイトかったりぃなー。自販機いかがっすかー。あったかーい。つめたーい。」

 

「確かにオレあったかい飲み物だけど、別に売れなくてもいいし。飲まれなくてもいいし。
誰も死なないし。あーだけどここにいてもつまんねぇなー。誰か可愛いねーちゃん俺のフタ開けてくんねぇかなー。
あったかーい。つめたーい。」

 

みたいな?

 

なんかこう、その中間くらいのが欲しいよねと。
松岡修造とやる気ないバイトの中間が欲しいと。

 

・・・そうか!!

 

「あったか~い」「つめた~い」

か!!!!!

 

それだ!!

 

ほどよい距離感を保ちつつも、消費者の心にそっと寄り添い興味を惹かれるその感じを我々は求めていたのだ!!

 

マーベラス!!

 

・・・・・きっと、そんないきさつがあったに違いない。うむ。

 

どうもこんばんは、愛子です。

 

単にあたたかい飲み物いいよねって記事を書こうとしていたのですが、
タイトルを興味を引くものにしようとして、「あたたかい」を「あったか~い」に変えた結果、
とんだ寄り道をしました。

 

最近は紅茶をよく好んで飲みます。

ほのかな苦みと豊かな香り。
飲めば身体もこころもあったまります。

 

あったか~い。

 

寝る前や夜にはできるだけノンカフェインを~。

 

とはいえ飲みたいときに飲んで、結果心臓バクバクしながらおふとんにインするのも人生。(?)

 

・・・・・

 

いつも真面目ないい子ちゃんなので(自分で言うヤツ)、
ユーモアのある文章が書けるようになりたいものです。
ひいてはユーモアのある人間になりたいものです。

 

いつも

 

「ど、どうしたら私は面白くなれるんだ…!!真面目から抜け出したいよ!真面目に!!」

 

という真面目ループに陥っています。えへ。

 

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■ 1人の「多面性」を見る ■

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100人いたら100通りの考えがあるというけれど、
それは1人の中でも言える。

 

1人のひとの中にも、100通り何通りもの違う面がある。


昨日と今日で考えが変わったり、状態も変わったりするから。

 

例えば私は、仕事から逃げた話を前回の投稿で書いた。


その投稿だけ見たら、私は「逃げる人間」だ。
そこだけ見れば、「あーきっといつも逃げる人間なんだな」と決めつけることもできる。

 

けれど、実際の私は、逃げなかったことだってあるワケで。

 

例えば、学校と部活からは逃げなかった。
最後まで参加し続けた。

 

小中高と8年間ほどバレーボール部でずっと部活をやっていたけど、
その中ではいじめもあったし、厳しい上下関係やぐちゃぐちゃな人間関係や、
厳しいトレーニングや練習が毎日待ち受けていた。

 

けれど、私は逃げずに毎日学校に行った。毎日部活に参加した。

 

孤立してひとりぼっちなときでも、毎日学校に行った。
厳しくて怖くてつらい人間関係や練習があっても、毎日参加した。

 

そのときの私には「逃げる」とか「辞める」という選択肢はなかった。
ただ耐え忍んで食らいついていくしかなかった。

 

辞めても居場所がなかっただろうし、辞めなくても居場所がないのは同じだったと思う。

 

だけど、そのとき逃げずにやり続けたからこそ、
身体的な体力もついたし精神的な忍耐力も身についた。

 

トレーニングのおかげで、
学校で行われる体力測定の20mシャトルランでは、
最後まで余裕で走り続けて女子の満点を余裕でとれるくらいの体力がついた。

 

私は体が細くていつも軟弱そうに見られることが多いけれど、実はそうじゃなかったりもするのだ。
今の私は残念ながら、本当に体力がないのだけれど。

 

精神的な忍耐力や粘り強さのようなものは、学校を卒業して大人になってからも内側にひそみ続けているように思う。

 

そのときの逃げなかった経験や培った精神性のようなものがあったからこそ、
今の私がある。

 

そのおかげで、生きる力がついた。

 

・・・・・

 

何が言いたいかというと、こうして1人の人間の中にも、
「多面性」「多様性」があるということ。

 

逃げたこともあれば、逃げなかったこともある。

 

強いところもあれば、弱いところもある。

 

ついつい一つの視点だけで決めつけてしまいがちだけど、
1人の人の中にも、たくさんの異なる面があると私は思う。

 

昨日と今日の私は全然違うことだってあるし。
1時間前と1時間後の誰かも全然違うことだってある。

 

どんなその人も、その人なんだ。


1人のひとの中にも、多様性がある。

 

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■ 私の家に警察が来た日。~「なぜそうなるのか?」を見ようとする姿勢~ ■

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ピンポーン。ピンポーン、ピンポーン・・・。。

 

鳴り続ける家の呼び出し音に、仕方なくドアを開けた。

 

すると、会社の上司と警察官が立っていた。

 

そう、警察が私の家に来たのである。

 

・・・・・

 

精神的につらくなり、早退・欠勤が増えていった。

 

欠勤するのにも、会社に電話連絡をしなければならないのが、ものすごく嫌で怖くておっくうだった。

 

それである日、無断欠勤をした。

 

もう、「休みます」の一言の連絡をすることを諦めた。
仕事に行くことを諦めた。
これで仕事を辞めようと決めた。

 

どうなってもいいやと思った。

 

もう数年前のことだから、記憶が曖昧だけれど、
たぶん会社から電話はかかってきていた。
出勤していない私への電話連絡。

 

全てを閉ざしているそのときの私は当然、
会社からの電話など出るはずもなかった。

 

ふとんにくるまりながら、ひたすら逃げて拒否して閉ざして自分を守っていた。

 

しにたい。きえたい。

 

そうして電話も無視してひきこもっていると、
家まで上司と警察官が来るという結果になった。

 

ドアを開けた私の目の前に立っていた上司と警官は、
安堵と呆れが混じった表情をしていた。

 

「連絡しないとこういうことになってしまうんですよ」
と言われた。

 

私の生存というか、私の存在を確認した警官は、そのまますぐに帰って行った。

 

とてもあたたかい会社と上司。
別にそのときの会社や仕事自体に問題はなかった。
ただ私の心がふさがってしまって、どうしようもない状態だった。

 

とてもよくしてもらったのに申し訳なかったけれど、
そのまま退職させてもらった。

 

・・・・・

 

メンタルが不安定なとき、
私はよくドタキャンや無断欠勤や
「やっぱりやめます」「やっぱり行きません」
という選択を繰り返していた。

 

そんなことをする人間は上手くいかない、
ダメな人間だ、と言われても仕方ない。

 

だけど、そんなこと分かっているんだ当時者たちは。

 

それは当然、周りの人に迷惑をかける行為であり、
本来はあってはならない行為であるって。

そんなことする自分は、ダメな人間だって。

 

分かっているけど、心を安定させられない。

 

数日前に「よし行こう!」と意気込んでいたのに、
数日後には「行きたくない行きたくない行きたくない部屋を出たくない動けない」状態になる自分。

 

そんな自分はどうしようもないダメな人間だって、
だから存在しない方がいいんだって、そんなのは痛いほど当事者は分かっている。

 

それを否定されるともっと嫌になることも本人は分かっている。

 

・・・・・・

 

当時の私と比べものにならないくらい良い状態に変わった今の私は思う。

 

そういう人間の結果だけを見て、
否定や批判をしても、正直意味がないって。

 

大事なのは、

「なぜそうなったのか?」
「なぜそんなことをしたのか?」
「どんな思いでそれをしたのか?」

という背景を見ることだって。

 

非行少年や犯罪者だってそう。

犯罪はダメだとか、暴力はダメだとか、人を殺すのはダメだとか、
そんなことは知っているワケで。分かっているハズで。

 

そういう人に

 

「なんでそんなことするんだ!ダメだろ!だからお前はダメなんだよ!
だからお前はうまくいかないんだよ!」

 

って表面に現れている結果だけを見て、何かを言ったって、何も変わらない。むしろ悪化する。

 

背景を見ようとすれば、一見ダメなように見える人も、
愛すべきひとなんだってことが分かってくるんだ。

 

背景を見ようとすれば、相手に優しくあれる。
そんな相手も自分に心を開いてくれる。

 

お互いに相手の背景を見ようとすれば、
お互い優しくあれる。

 

誰かの奴隷になりたいならば、
背景や想いを見ようとせずに一つの決まった答えなるものに従えばいい。

 

そうなりたくないなら、
他人や自分の背景や想いを優しく包み込んでみよう。

 

ついつい真逆のこともしたくなってしまうけど、それでもいいから。

 

それも自分だから。それも他人だから。

 

もちろん、私のこの主張も、
あくまで私の主張。意見。想い。

 

100人の中の1人の中の1つの想いと意見。

 

私は私の想いや意見を述べるだけ。


共感する人も共感しない人もどちらがいてもOK。

 

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