Aiko's blog

今日も素敵なすてきな1日を*

■ 生きていてよかった。生まれてきてよかった。そう思えるとき。■

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学生時代から、大人になって今に至るまで、
ずっと私は、

 

「変人」「天然」「不思議」
「おかしい」
「人と感覚がズレてる」

 

と言われてきた。

 

いつもみんなに笑われる役。
いつもみんなに小馬鹿にされる役。

 

いつも

 

「うわっ・・・(意味わかんね何してんのバカじゃね)」

 

とか

 

「はぁ?・・・(意味わかんね何してんのバカだろ)」

 

とか

 

「ふっ。(またこの子おかしいことしてるわ。苦笑)」

 

って反応される役。

 

私が誰かの意見に賛同すると、
「中野さんと同じ~?!嫌だなー。笑」
って冗談っぽく反応される。

 

でもそれは、冗談っぽい表現なだけで、

 

「中野さんと同じなんて自分も終わったな。
だって、中野さんておかしいから。(嘲笑/拒否)」

 

っていう本音が多分に含まれている。

 

学校にいても劣等感まみれ。
大人になって社会に出ても劣等感まみれ。

 

今までいろんなアルバイトを経験してきた。
けれど、どの職場でも「劣等感」「無能感」を嫌というほど味わった。  

 

私と同じ職場で一定の期間、一緒に働けばそれは分かる。

 

「この子は、普通の人が普通に理解できることが、中々理解できない。」
「この子は、人と感覚がかなりズレている。困る。」
「一秒前に言ったことを、一秒後にはもう忘れている。」
「目の前や周囲が全く見えていない。」
「頭の回転が非常に遅い。」
「一緒に働きにくい。非常に労力を使う。」
「普通の子ができることが、普通にできない。」

 

それを、学生のときから今に至るまでずっと、
感じてきた。実感せざるを得なかった。

 

どの仕事をしても、
いつも私は遅くて鈍くて忘れやすくてどんくさい。 

 

仕事をするたび、集団の中にいるたび、
自分の無能感を感じざるをえなくなる。

 

人と違う性質。人と違う思考回路。
無能さ。  

どこにいっても、自分の無能さで嫌になる。

 

だから、働くことはそんなに好きじゃない。(もちろん好きな部分も沢山ある。)


自分の無能さとか、「自分の感覚はおかしい。他人にとって迷惑。」という気持ちを味わうことになるから。

 

こんなこと書くと、また誰かから
「自分を特別視する人間は~」と批判されそうで怖いけれど。
(人と感覚がズレている人間、変わってる人間なんて、もちろん私だけじゃない。そんな人沢山いる。)

 

だけど実際、私は今まで色んな人から 

 

「おかしい」
「違う」
「変わっている」
「感覚がズレている」

 

って直接言われ続けてきた。

 

私はそんな自分を、
良い意味で捉えられたことなんてない。 

 

他人に指摘されるときはいつも、
良くない意味だから。

 

小馬鹿にされるときか、嘲笑されるときか、
迷惑がられるときか、困られるときか、
引かれるときか、距離を置かれるときがほとんど。

 

だから間違っても、人と違うらしいということを、
自分は優れているという意味で特別だなんて捉えられなかった。

 

いつも
「自分は劣っている。間違っている。」という意味で特別感を抱いて、
自己否定に自己卑下を重ねていた。

 

みんなの仲間に入れてほしかった。
共感してほしかった。
受け入れてほしかった。
愛してほしかった。

 

みんなに「おかしい」ってバカにされて笑われて、
私の母親も精神病で、母親の兄も精神病院にずっと入院していて家族から疎まれていて、
父親もおじいちゃんも病名こそないけれど病んでるのと同じ自己愛のない性格で。

 

「やっぱりきっと私も病気なんだ」

って学生のときから心の隅で思ってきた。

 

というか、病気になりたかった。
病名を付けてほしかった。

 

言い訳できるから。それのせいにできるから。
逃げられるから。

 

「よかった。私がおかしいのは、病気のせいなんだ。」って。

そうやって安心したかった。 

 

病名がつけば、誰かに強く否定批判攻撃されても、
自分を守ることができるから。

「私は、病気なんだから仕方ないんだ。」って。

 

メンタル強い人は、精神病は逃げだって言うけれど、
そういう攻撃をしてくる人から身を守るためにこそ、

逃げ場が必要だと思う。

 

精神病の病名って、病気って、
逃げ場がなくて困っている人の救いになるって思う。
居場所になるって思う。

 

安心できる居場所があるからこそ、
ゆっくりと自分を良くしていけるから。

 

・・・・・

 

私の感覚はおかしくて
私には常識がなくて
私の思いは間違っていて
私の考えは危険で
私の思想は価値がない 

 

と他人に否定される悲しさと、

 

そうやって自分をバカにしたり見下してくる人間に対する、怒りと悔しさ。  

 

みんなと同じ世界に生きたい。
みんなと仲間になりたい。
みんなに価値があると思われる人間になりたい。
私も仲間に入れてほしい。
受け入れてほしい。
愛してほしい。
だけど、どーせ私なんて・・・

 

という思い。

 

自分の憧れと、自分の無能さ。
自分の理想と、自分の現実。 

 

・・・・・

 

ずっと悲劇のヒロインになって、
「どーせ私は」が心の口癖だった。
今もしょっちゅう出るけど。

 

だけど、そんな私が、
自分を受け入れてくれる人たちと出逢った。

 

こんな私を、認めてくれる人たちがいた。
こんな私を、仲間に入れてくれる人たちがいた。

 

こんな私を、全力で受け入れてくれる人たちがいた。
こんな私を、全力で愛して包んでくれる人たちがいた。 

 

心の底から「生きていてよかった」って感じることができた。
涙がとまらない。

 

嬉しいとかそういう次元じゃない。
言葉には表わせない。

 

ただひたすら涙が出る。

 

ただそれだけ。

 

かけがえのないプレゼント。

 

あいらぶゆー。

 

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■ 黙れバカっ!- 自分の発言に、縛られない。- ■

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他人の言葉に縛られたくない。
誰かのルールに縛られたくない。

 

自分の言葉にも縛られたくない。
自分のルールにも縛られたくない。

 

過去の発言に縛られたくない。

 

「○○さんが、こう言っていたから・・・(違う意見なんて言えない。。)」

 

「あのときは、こう言ったから・・・(だから反対のことなんて言えない。。)」

 

「この間、自分でああ言ったから・・・(それを平気で破ると、誰かに「言ってることが違うじゃないか!」と批判されそう。。)」

 

・・・そうやって縛られたくない。


他人の発言にも、自分自身の発言にも。

だから、自分自身の言葉やルールにも、
縛られず生きたい。

 

以前の「陰と陽」の投稿にも書いたように、
どちらか片方だけの人間なんていないと思うから。

 

生まれてから死ぬまで一生、
隅から隅まで同じ考えや思いの人間なんていないから。

 

そんな人いたら、そうとう我慢している人だと思う。
いやーん。がまーん。

 

矛盾だらけでいいのだきっと。
他人に「言ってることが違う」って指摘されても、
気にせず今の自分の想いを見つめていきたい。

 

むしろ、一見矛盾だらけなように見えるけれど、
どれも一理あるなって主張をしていきたい。

 

「なにそれ!言ってること違うじゃん!
でも確かにそれも一理ある!」

 

という視点を自分で沢山持てると、
視野が広くなりそう。柔軟になれそう。

 

他人はもちろん、自分の無意識の「制限」もどんどん破っていきましょー。

 

・・・・・

 

自分や誰かを守りたいとき、
言われっぱなしじゃ嫌なとき、
とにかく何か言いたいとき、

 

いざとなったら

「黙れバカッ!」

って言えるような自分でいよーっと。

 

そんで「人をバカにする人間は嫌いって言ってたじゃないか!」と指摘されたら、

 

「そうだバカ!言ってたよバカ!でも今は言いたいんだバカ!」

 

って素直に(?)認めよう〜♪笑

 

もはやバカが語尾になってるだバカ。
そうだバカ!

 

・・・・・

 

私は、いつも反発心が強い。
なぜなら、いつも抑えてきたから。
本音を殺してきたから。

「あれはダメ」「これはダメ」「どれもダメ」ってね。

 

その分、心の中で無視されて溜めこんできた「本音」が
強い反発心となって、いつも私の内側の壁を破ろうとする。

 

そして「本音の自分でも大丈夫」だと思える場所では、
抑えてきたものが見事爆発する。

 

自分の感情を抑えがちな人って、
10代のころに反抗期がなかった人も多いんじゃないかなって思う。

 

私もなかった。
ただし、目に見えるカタチでは、という意味で。

 

外側は、いつもニコニコ。
「愛ちゃんは、いつも笑顔だね^^」と言われたことに誇りを持っていた。

 

だけどホントは違った。
外に出せなかった分、
心の中ではいつでも反抗期。

 

外に出さないよう必死で押し殺していた分、
心の中では火山が大爆発。止まらない活火山。マグマ。

 

ぶくぶく。。バーン!

 

だけどそれは、あくまで自分の内側での爆発。

内側にとどまっていられない本音エネルギー。


それが、反発心となって外に顔を現す。

大人になった今でも、止まらない。

 

私にとって書くことは、
エネルギーの爆発だ。

 

エネルギーの解放だ。

 

自分のために、書いている。バカ。

 

好きなことって、そういうものなのかもしれない。バカ。

 

爆発しすぎて不快な人がいたら、ごめんなさい。
読まないように気を付けてくださいませ。

 

脳内消火活動よろしくお願いいたします。バk…

 

終わり。何書いてるのか分からなくなった。
B・A・K・A☆

 

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■ 滲み出る「その人の人間性」■

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その発信が、公であれプライベートであれ、
その人を表していることには違いない。

 

ちょっとしたときに現れる
「人を見下す姿勢」「人をバカにする言葉」。トゲトゲした雰囲気。

 

そういうのが所々に、垣間見える。

 

一般人だろうと、成功者と言われる人だろうと、それは滲み出てくる。

 

もちろん、私自身もそう。

 

昔の私は特に、
人をバカにしたり見下す姿勢が強かった。
ふとしたときに姿を現わしていた。

 

すごく生きにくかったなーと思う。 

 

・・・・・

 

そして逆に、

 

「人をバカにせず、見下さず、
対等で穏やかな姿勢」

 

が滲み出ている人もいる。

 

あえて名前を出すとしたら、
例えば本田健さん。

 

本田健さんのポッドキャストをよく聴いているのだけど、
どの放送を聴いても、それは滲み出ている。

 

「この人は、人をバカにしていない。見下していない。

 

成功していない人のことも、一般人のことも、
人生に悩んだり苦しんでいる人のことも、
見下していない。

 

いつも、どんな人に対しても、
尊重する気持ちをもって対等な目線で接してくれている。

 

そして、いつも自分自身や身の回りのことを、省みている。」

 

そういうあり方が、滲み出ているのだ。
どの放送を聴いても、その姿勢は一貫している。 


「ふとしたときに、誰かを強くバカにしたり見下したり批判する顔が垣間見える」ということもない。

 

すごい人だなぁと思う。

 

そして、私もそんな人間でありたいなって思う。

 

・・・・・

 

私が尊敬する人は、

 

成功しているのに、結果を出しているのに、
誰かのことをバカにも見下しもしていない人。 

 

成功しているのに、結果を出しているのに、
どんな人も尊重する気持ちがある人。どんな人とも対等に接する人。

 

成功しているのに、結果を出しているのに、
いつも自分自身のことを省みることができる人。

 

そして、もう一つ。

 

世間的な成功もしていないけど、結果も出していないけど、

ただひたすら素直で純粋な人。

 

成功してなくても結果出してなくても、

 

人を見下すことなく、
純粋な優しさと柔らかさと愛を持っている人。

 

そういう人たちを私は尊敬する。

 

私は人をさんざん見下したりバカにしたり、
トゲトゲした心を持ってきたから。

 

自分と同じような他人を見て、
嫌だなぁと思ってきたから。

 

そうじゃない人を見て、
すごいな素敵な人だなって思うのだ。

 

そうじゃない人を見て、
私もそういう人間でありたいなって思うのだ。

 

完璧になんてできなくていいから、
少しずつできるようになったらいいな。☆

 

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■ ココ、テストに出まぁ〜す! ■

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「お前は、しょうもない人間だ。」
=
「オレが、しょうもない人間だ。」 

 

「お前は、バカだ。」
=
「オレが、バカだ。」

 

お前=オレ

 

・・・・・

 

「あなたは、しょうもない人間だ。」
=
「私が、しょうもない人間だ。」 

 

「あなたは、バカだ。」
=
「私が、バカだ。」

 

あなた=私

 

・・・・・

 

お前=あなた

オレ=私

お前=私

あなた=オレ

私=オレ

オレ=私

お前=オレ

あなた=私

 

・・・・・

 

テストに出るので、
よぉ〜く覚えておくようにっ。

 

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■ 「○○さん(影響力のある人)を尊敬しています!!」から卒業して、自分の本音を優先させよう。 ■

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Facebookで影響力がある人の「シェア」ばかりしている人
・「○○さん」(尊敬する人や、影響力のある人物)の登場回数が頻繁な人

 

以上に当てはまる人は、 

他人の価値観に振り回されている可能性が高い。

 

自分の本音よりも、

 

その尊敬している○○さん、影響力のある○○さんの主張

 

にガッツリ振り回されている可能性が高い。

 

もちろん、自分の軸をしっかり持った上で、
他人のシェアをしたり、他人の名前を出している人も沢山いるだろう。

 

私が今回切り込んでいるのは、そうではない人。

 

「○○さん」の存在、「○○さん」の思想を、
あたかも自分だと思い込んでいる人。

 

「私の/僕の信念は、コレだ!」
と言いながら、その中身は、

 

「○○さんがそう言っていたから!」
「○○さんはすごいから!」
だったりする。

 

・・・・・

 

過去の私がそうだった。

 

尊敬する人やすごいと信じて疑わない人の投稿には、
秒速で「いいね!」を押していた。全ての投稿に。

 

「シェアしてね」と書いてあったら、
秒速で「シェア」していた。

 

「紹介してね」と書いてあったら、
秒速で紹介していた。 

 

結果、私のFacebookタイムラインは、

すごい(と思っている)人のシェア投稿

で埋まっていた。

 

「○○さん」という固有名詞の登場回数、多すぎた。
「○○さん」へのタグ付け、多すぎた。
「○○さん」の紹介、多すぎた。

 

「○○さん」の奴隷だった。

 

そんな過去の私に言いたい。

 

そんな君のオススメする
「○○さん」なんて、全然興味惹かれないぞっ。

 

そんな君がゴリ押しする
「他人から借りた価値観」
になんて、全然共感しないぞうっ。

 

「○○さん」はもういいからさ、
あなたの想いを大事にしなよっ! 

 

「○○さん」は置いておいてさ、
あなたの本音を教えてよっ!

 

あなたは、
「○○さん」の威を借りているだけだよっ!

 

「○○さん」の名前を出せば、
自分が強くなったように錯覚できるからね。

 

「○○さん」の名前を出せば、
まるで自分がその人と同じような影響力をもったかのように錯覚できるからね。

 

「○○さん」の力を、
自分も持っているかのように錯覚できる。

 

「○○さん」の力を自分も持っているんだと、
他人に示せていると錯覚できる。

 

「○○さん」と関わりのある私。
「○○さん」と関わりのあるオレ。

 

「○○さん」を尊敬している私。
「○○さん」を尊敬しているオレ。

 

「○○さんは素晴らしい!」 

 

「○○さん」がすごいのは素晴らしいのは分かったわ。うん。

 

だから、もう「○○さん」を卒業しよう。

 

あなたの想いを大事にしよう。

 

誰の威も借りないで、
等身大の自分で表現している人は、 

 

とっても魅力的だ。

 

それは、○○さんと比べてしまえば、
とっても小さく感じてしまうだろう。

 

けれど、○○さんの威を借りていたときのあなたより、
比べ物にならないくらい輝いている。 

 

そんな等身大のあなたが素敵。

 

・・・・・

 

冒頭で注意書きをしたように、
自分の軸をしっかり持った上で、
他人のシェアをしたり、他人の名前を出している人ももちろん沢山いると思う。

 

だけど、昔の私のように、
自分以外の誰かに無意識に振り回されている人も多いんじゃないかなって思う。

 

私は、自分以外の他人を盲信しやすい。
依存しやすい。

自分の想いを置いてけぼりにしやすい。 

 

他の誰かすごい人、尊敬する人たちの言っていることが、絶対的な正解なんだと思い込んでいた。

 

そして自分の想いをないものにしていた。
自分の思っていることは間違いだって。
自分の感覚はおかしいんだって。

 

とても苦しかった。
もがいて全てを手放すしかなくなったとき、
その状態から脱出できた。

 

自分の正解は、自分の中にあるんだと気づきはじめた。
自分の本心こそに、自分の想いの中にこそ、
自分の答えがあるんだって実感するようになった。

 

そうして、自分の想いを大事にすることを意識し始めた。
すると、どんどん心が解放されていった。
心の重荷がどんどん減っていった。

 

生きるのが前よりとても楽になった。

 

そうか、自分以外の誰かじゃないんだ。

 

よし、自分を大事にしよう。
自分の想いを大事にしよう。

 

○○さんとかすごい人とか尊敬する人も関係ないんだ。

 

そうやって強く意識しはじめた。

 

だから今の私は、
Facebookの投稿では、極力他人の名前を出さないようにしている。

 

シェアだって、本当に自分がいいなと思ったものかつ、自分のタイムラインにも載せたいと思ったものだけにすることを意識している。

 

できるだけ、他人の威を借りないように。
できるだけ、影響力ある人の発言や価値観に、振り回されないように。
できるだけ、すごい人や他人の価値観を、盲信しないように。

 

できるだけ、自分の想いに集中。
できるだけ、自分の想いに忠実に。

 

もちろん、自分の想いというのは、
大なり小なり必ず、他人の影響を受けている。

 

だけど、その想いが、
自分の本心にしっくりきているかどうかが大事ってこと。

 

違和感があるかどうか。
本音かどうか。

 

だから、結果的に誰かの影響を受けた想いだったとしても何も問題はない。

 

自分の気持ちや感覚がどうであるかが大事だから。

 

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■ 「絶対的な味方」に出逢えば、好き放題に生きられる。 ■

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ついつい、自分の気持ちを抑えてしまう人は、
他人に嫌われることを恐れている。

 

他人に嫌われることを、過剰に恐れている。

 

誰か1人にでも嫌われてしまったら、一巻の終わりだと思っている。
「私の人生、オワタ。」と思ってしまう。

 

なぜそんなに恐れるのか? 

 

それは、「自分には絶対的な味方がいない」と思い込んでいるから。
言い換えると、「自信がない」ということでもある。

 

自分自身が自分の絶対的な味方でいてあげられない。
誰か1人でも、自分以外の他に絶対的な味方もいない。

 

自分も他人も、味方じゃない世界。
誰一人として、自分の味方がいない世界。

 

自分ですら、自分自身の味方になってあげられない。

 

そういう世界に生きてしまっている人は、
ひたすら人に嫌われないように振る舞うしかなくなる。

ひたすら愛想笑いをして、ひたすら自分の感情を抑え込む。


そうしていれば、嫌われないから。

嫌われなければ、自分の存在は受け入れてもらえるから。
嫌われなければ、自分は存在していいんだと思えるから。

 

本当の味方などいない(と思い込んでいる)人間にとって、
嫌われるということは、「死」を意味する。

 

だって、味方がいない(と思い込んでいる)から。

 

味方がいない世界で、誰か1人にでも嫌われてしまうということは、
絶望的な出来事なのだ。

 

ただでさえ味方がいない。自信がない。
自分はココに存在していいと思えない。

 

そこに、「あなた嫌い」という他人が発生すると、
いよいよ追い打ちをかけるのだ。

 

「お前はもう終わりだ」
「お前はもう存在するな」

 

と死刑宣告を受けているように感じるから。

 

嫌われてしまうと、どこを頼りに生きていればいいのか分からない。
嫌われると、もう自分はどこに存在すればいいのか分からなくなる。

 

だって、味方がいない(と思い込んでいる)から。

 

嫌われても、味方がいれば生きていける。

 

「嫌う人がいたって、どんなときだって、どんなあなただって、
私はあなたの味方だよ。」

 

という存在こそが、生きる力になるから。
生きる光だから。

 

だけど、そんな存在がいないと思い込んでいるときは、
必死に愛想よく振る舞って、他人に気に入られる自分でいることでしか、
自分を保つことができない。

 

他人に嫌われていなければ、他人に気に入られれば、
自分は存在していいと思えるから。


それ以外に、自分の存在を許可できるものがないと思っているから。
そうすることでしか、自分の存在を肯定することができないから。

 

・・・・・

 

前回の投稿でも少し紹介した
『無愛想のススメ』
という本。

 

「なんか良さそうだな~」と軽い気持ちで手に取った。
自己啓発本とかメンタル系の本は、よく目にしてきたから、
正直そんなに期待はしていなかった。

 

けれど、予想外な結果になった。
予想外すぎる。自分でも驚いている。

 

『無愛想になる』というテーマが、この本の内容が、
あまりにも自分の抑え込んできた感情を呼び覚ましたから。

 

『嫌われる勇気』を読んだときは、こんな風に自分の感情が湧きあがることはなかった。
もちろん、面白かったし興味深い内容だった。
この本にはこの本で、素晴らしい役割がある。

 

けれど、私が必要としていたのは、知識じゃない。

 

自分の奥底に眠っているもの、抑え込み過ぎて感じることができなくなっていたもの。
見えなくなっていたもの。

そういうものを、呼び覚まし、感じること。気づくこと。

 

それが、私の求めていたことだった。

 

きっと、求めている人は他にも沢山いるはず。

 

・・・・・

 

自分を抑えて抑えて抑えて。
自分を殺して殺して。

 

行き場をなくした強い感情は、
どんどん、どんどん、自分の奥底に詰め込んでいった。

 

ぎゅ~~~~~っと。
いつの間にか、莫大な量になってギュウギュウに詰め込まれた感情たちは、
ついに破裂しそうになる。

 

他人や自分への「強い殺意」となるのだ。
そして「強い怒り」となるのだ。

 

塊になった強大な負のエネルギー。
それはもう、どこかに吐くことができる代物ではなくなる。
吐いてしまうと、誰かを不快にさせたり傷つける。

 

ますます、行き場をなくす感情。

 

どこにも行き場をなくした感情は、
とにかく「自分一人で処理しようとする」か「無理やりなかったものにしようとする」。

 

そうして全てが、自分の内側にある、狭い狭い押入れに押し込められていく。

 

そうして自分の気持ちがどんどん分からなくなっていく。

 

・・・・・

 

そんなときに、自分以外の存在によって、
抑え込んでいた感情が解き放たれる。

 

自分以外の存在とは、今回の私のように、気軽に手に取った本かもしれない。
そして、自分以外の「人」の存在でもあるだろう。

 

・・・・・

 

「自分の絶対的な味方」。

 

それは、他人でもあり、自分でもある。
そんな存在と出逢い、そんな存在に気づくこと。
そんな存在に包まれること。

 

そんな存在が、世界にはいるのだ。

 

外に出ていけば、きっとどこかに自分の味方はいる。

 

絶対的な味方に出逢った今の私は、
昔の私よりはるかにイキイキしてる。

 

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■ 無愛想のススメ(恋愛) ■  

 

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愛想がよすぎると、
好きでもない男性から

 

「オレでもいけるんじゃないか?」

 

と勘違いされるから無愛想になるときも必要。

 

自分のことを安く見られた状態で、
勘違いされたままの状態で、

 

「オレは魅力的だぜ」アピールをされても何も響かないばかりか、完全に逆効果。

 

無愛想になれば、
そういう人たちを寄せ付けないので快適。

 

人として好きな人はたくさんいる。
だからといって、男の人として好きとは限らない。

 

「じゃぁ男として好きにさせよう」などとテクニックを使ってしまうと、どんどん遠くなる。

 

・・・・・

 

自然体が一番なので、必要ないとこで無愛想になる必要もない。 

 

自然体でいれば、他人からは、愛想よく見えるときもあるし、無愛想に見えるときもある。

 

昨日『無愛想のススメ』という本を買って読み進めているんだけど、私にとっては色々思うことがカナリ多いテーマだ。

 

『嫌われる勇気』は哲学書寄りな印象だけど、
いま読んでる『無愛想のススメ』は、もっと私たち一人一人にとって身近に感じることができる内容。

 

久々に自分の過去や抑え込んでいた感情とガッツリ向き合わさせられる。

 

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