Aiko's blog

今日も素敵なすてきな1日を*

■ 他人に言うことは、自分にも当てはまる ■

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ぜんぶ自分 。

 

あの人、この人、その人。
わたし、あなた。

 

ぜんぶ、自分のこと。


そう思って、見たり聞いたり、言ったり書いたり、感じたりしよう。したい。できるだけ。

 

私は頑固だから、言うは易く行うは難しなのだ☆

 

かといって「そうだよキミは頑固だからね!まったく!」と思う人は、自分の頑固さに気づいていないのかもしれない。

 

・・・・・

 

 他人に言うことは、自分にも当てはまる。

 

それを忘れると、
人は他人のせいにばかりする。

 

他人の欠点ばかり指摘するようになる。
自分自身の欠点はまるで何もないかのようにして。

 

「あなたのココが悪い」
「お前がダメなんだよ」

と。

 

じゃぁ自分はどうなんだ?

 

という視点がすっぽ抜けていることは多い。

 

また、

「屁理屈を言うな」
「揚げ足を取るな」

という反論は、
どんなときにも使える。

 

自分の都合が悪くなったときに
その反論をすれば、
自分の非を認めずに済む。

 

あなたが悪い。
お前が悪い。

 

相手が悪い。
相手がおかしい。


相手のただの屁理屈。
相手のただの揚げ足とり。

 

自分には一切、
非はない。

 

自分には一切、
当てはまることはない。

 

そういう姿勢が1番どうしようもない。

 

だけど、私自身はもちろん、
あの人や誰かだって、
そういう状態に陥ることがなんと多いことか。

 

気づけたり、
認められるなら、

まだ未来は開ける。

 

自戒を込めて。

 

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■ 本人はネガティブじゃないのに、他人が勝手に「あなたはネガティブだ」と決めつける現象 ■

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そういうのはよくあること。

 

例えば、私が
「私を粗末に扱う人間は嫌い」
という発信をしたとき。

 

その発信を見て、

 

「あ、ネガティブな視点が強いな。
他人の悪いところばかり見ているな。
ネガティブな悪い状態になってるんだろうな。」

 

と決めつける他人もいるかもしれない。

 

だけど、実際の本人は、全然悪い状態ではなかったりする。

 

本人には本人の想いや目的があって、
意識的にそういう発信をしていたりする。

 

それなのに、

「こいつはネガティブで悪い状態になっているに違いない。」

と他人に決めつけられると、

 

「んー、なんか全然違うんだけどなー。。」

とモヤっとした気持ちと寂しい気持ちを感じる。

 

・・・・・

 

「決めつけ」ってよく起こる現象。

 

私自身もしょっちゅう他人のこと決めつけている。

 

「この人はきっと~に違いない」
なんて。

 

それはある意味、自然なことでもある。

 

だって、本人の真相や真意なんて、
言わなければ他人には分からない。

 

言ったとしても、他人には分からなかったりする。

 

前回投稿した、
■ 「見えないもの」を見ようとする姿勢 ■
という記事にも書いたように。

 

私たちの「見えているもの」は、
「省略」された状態のものだったりするから。

 

だから、私も他人も分からなくて当然。
決めつけだって、私も他人も日常茶飯事。

 

だけど同時に、
決めつけることは危険。

 

「こいつは~だろう。」
「こいつは~に違いない。」

 

そうやって、無意識に決めつけ、押し付けている私たち。

 

ほんの少し、その人の表面上「見える部分」だけをかじっただけなのに。

 

実は、その人の真意や想いなんて、
全然確認すらしてなかったりするのに。

 

なのに、私たちは、すぐに決めつけてしまう。

 

そして、自分の主張が絶対正しいと言わんばかりの態度をとってしまう。

 

私も、あなたも。

 

誰かに何かを教える立場の人って、特に、
その決めつけに敏感にならないと、

 

正しい良いことをしているつもりが、
実は正反対の暴力になってしまうことは往々にして、ある。

 

もちろん、自戒を込めて。

 

・・・・・

 

結果を出していたり、人に支持されている人が

「~な人間はダメだ!嫌いだ。」

と発信するのと、

 

他人からみて上手くいっていないと決めつけられやすい人が

「~な人間はダメだ!嫌いだ。」

と発信するのって、

 

実は、何も変わりがなかったりする。

 

だけど、私たちは、

 

偉い人が言っていると
「教訓」「学び」
と捉え、

 

偉くないと自分が無意識に決めつけている人が言っていると
「愚痴」「ネガティブ」
などと判断する。 

 

ぶっちゃけ、どちらも同じだったりするのに。

 

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■ 「見えないもの」を見ようとする姿勢 ■

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何かを主張すれば、
何かを否定することになることは多い。 

 

けれど、実際には、
様々な背景や条件や環境によって、

 

主張の中身は、

 

枝分かれするもの。
変化するもの。

 

だけど、
限られた時間やスペースの中では、
いちいち細かなことなど説明していられない。

 

だから、
人に何かを伝えたり、
自分の想いを言葉やカタチに具現化するときは、

 

「凝縮」された状態
「短縮」された状態
「省略」された状態
「要約」された状態

 

になることがほとんど。

 

だけど、
他人からは

何がその奥に凝縮されているかなんて、
分からないことの方が多い。

 

見えないところに、

どんな背景があるか
どんな省略があるか

 

なんて、他人には分からない。

 

説明しなければ、
細かいところや、現実に即した想いは
伝わらないことの方が多いのだ。

 

説明したって、
本人の想いが100%伝わるかどうかは
分からないけれど、

説明しないよりは遥かに伝わる可能性が高い。

 

だけど、
毎回細かなところまで説明するなんて、面倒。 

 

だから、分かりやすいカタチになったものだけ
伝えることが多い。

 

他人は往々にして

 

分かりやすい部分
目に見える部分

 

しか捉えない、捉えられない。

それが当然。

 

しかし、それゆえに、
私たちは自分のことを誤解されたり、
他人のことを誤解するのだ。

そして、もどかしさを抱える。

 

けれど、
ここにきて、

この文章を書くのに疲れて面倒になってきた私は思う。
(支離滅裂なのはいつものこと。)

 

伝わる人に、
伝わればいい。

 

と。

 

けれど、

伝わってほしい人に
伝えることを簡単には諦めたくない。 

 

伝わることを願いながら、
伝えることを継続していきたい。私は。

 

その上で、
伝わる人に伝わればそれでいい。

 

数は少なくても、
見えない部分まで分かってくれる人が1人でもいてくれたら、とても心強い。

 

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■ オムライス食べるなら、あなたと友達でいられない?! ■

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外国を知ると、価値観が壊れる。いとも簡単に。
自分の狭い狭い凝り固まった価値観が。

 

それも中途半端じゃなく、
「世界崩壊」レベルの衝撃を受ける。 

 

強烈な印象なのだ。

明らかに違う、と分かるから。

 

例えば

 

「人と違っていい、人と違うのは当たり前。
自分の正直な意見を主張するのは当たり前。
違っても嫌いにならないし、変にも思わない。」 

 

という「体感覚」が、
外国の人からは伝わってくるのだ。

 

「違ってもいい」という価値観を、
自分と同じ日本人が、努力して身につけた状態とは比べ物にならない。

 

生まれながらにして、
「自分の正直な意見を主張するのは当然」
という価値観が、

 

全身の細胞に染み込んでいるのだ。

 

そんな異文化の体感覚にハッとさせられた今日。
たまたま見つけたYouTubeの動画で。

 

 「外国人に聞いてみた」日本人の女性はCoolになるべき? - YouTube

 

最近読んだ『無愛想のススメ』という本の内容にも通じるなぁと思いました。

 

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■ 病んでいる人は、コーチングよりもカウンセリングへ ■

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あくまで私の個人的な感覚だけど、

心身ともに健康体(心が前向きな状態)ならば、コーチングが効果的で、
心が弱っていたり不安定になりやすい人は、カウンセリングの方が効果的

だなーと思っている。

(もっと根本的なところで大きな効果があるのは、
リアルな人とのつながりや「愛の実感」だったりする。

ただ今回はその話は置いておきます。)

・・・・・

そもそも、コーチングとカウンセリングは目的が違うから、
合う人の種類が違うのも当たり前なのかもしれないけれど。

ただ、心が不安定だったり迷走しているときって、
何が自分に効果的なのかなんて分からないもの。

そんなときにカウンセリングとコーチングのそもそもの違いなど、知るはずもない。

とにかく、自分が良い状態になりそうな
「精神系のジャンル」
の情報をあさるもの。

私も本やインターネットで精神系の情報をたくさん漁ってきた。

そこで、
人を良い状態に導く手法としてよく見かけたのが、
コーチングとカウンセリング。

どちらの情報にも触れていくうちに、

コーチング系は少し苦しくなるな」
「私にはカウンセリング系の方が合っている」

ということに気付いた。

これは別に、コーチングが悪いとか効果がないなんて言いたいワケでは決してない。
単に、私にとって個人的に、合うか合わないかの話。

当然、他の誰かにとっては、
カウンセリングよりもコーチングの方が遥かに効果的であり、相性がいいだろう。

ただ、私にとってしっくりくる、苦しくなくて心が軽くなると感じられるのは、
カウンセリング系の情報だった。

単に情報の「受け手」としての感覚なんだけど。
一個人の、無知な素人としての受け手の感覚。

コーチングは、松岡修造さんのような感じ。
基本、ポジティブ。基本、前向き。

ネガティブになっていたら、
「おいおいどうしたんだい!君らしくないぜ!ネガティブになってないで人生楽しもうぜ!」
と活を入れてくれる感覚。

カウンセリングは、理想のお母さんのような感じ。
ネガティブな人向き。不安定な人向き。

ネガティブになっていたら、
「どうしたの?そうか、つらかったんだね。大丈夫だよ。じっくり良くなっていこうね。」
と寄り添ってくれる感覚。

コーチングは「そんなお母さんにいつまでも甘えてんじゃないよ!そんなんじゃいつまでもネガティブだよ!」と叱咤激励される感じが若干する。

※あくまで、私個人の感覚です。
感覚には個人差が当然あります。
自分の感覚に従うのが一番です。

・・・・・

ネガティブ気質が強い私にとっては、

コーチングの色が強いと、ちょっとついていけなくなりがちでフェードアウトしちゃう。私にとってはポジティブ過ぎてついていけない感覚が強め。
ネガティブな自分を責めやすい。

カウンセリング色が強いと、「あ、ネガティブでも許してもらえるんだ。大丈夫なんだ。」
と安心できる。自分のペースでじっくり良くなっていける感覚がある。ネガティブな自分を責めないで済む。

とはいえ、これも
誰がどのようにやるかによって受ける印象も違ってくる。

コーチングとカウンセリングの両方の要素を上手く取り入れている方もいらっしゃるだろうし。
その上、単にコーチとクラインアント、カウンセラーとクライアントという関係に留まらず、
「深い愛でつながった仲間」として関係を構築できる方も中にはいらっしゃる。
それはもう、単なるコーチやカウンセラーとは一線を画している。

かといってもちろん、コーチやカウンセラー各自専門の方々も、それぞれ素晴らしい役割がある。
そして、それぞれが必要な人に素晴らしい効果をもたらす。

・・・・・

いろんな情報であふれかえっている今。

何が自分に合うのか、何が自分により効果的なのか、
実際に触れてみて、
「自分はどう感じるか?」を大切にしよう。

ココに書いたことも、
あくまで私1人の個人的な感想。

ココに書いたことが正解じゃない。

あなたはあなたの感覚を大切にしてね。

それがきっと正解。

 

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■ 依存してもいい。執着してもいい。■

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依存は絶対ダメだとか、執着は絶対ダメだとか、
必要以上にそれらを突き放そうとする人は、

 

依存心を隠している。
執着心を抑えている。

 

いつも何かを強く否定している人は、
とても支配的な人。
何かをとても恐れている人。

 

過剰な自立は、過剰な依存を呼ぶ。

 

成功者と言われる人の周りには、
依存的な人が多く集まる。

 

「オレの主張は絶対だ!」という人の周りには、
「あなたの言うことが全てです!」という人が集まる。

 

支配者は、依存者に、依存する。

 

支配する人は、依存してくれる人がいなければ、1人で立っていられない。

 

自立しているように見えて、とても依存体質なのだ。

 

多かれ少なかれ、
けっこうみんな、依存してたり執着してたりするよん。

 

人に全く依存していない(ように見える)人も、

 

人への依存を抑圧しているだけで、
人への依存を過剰に恐れているだけで、

 

iPhoneやお酒に依存してたりする。

 

自分は、少しも何にも依存してないと思ってるのかしら。
自分は、少しも何にも執着してないと思ってるのかしら。

 

自立と依存、どちらも誰もが合わせ持っている。 

 

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■ 自分よりも影響力がある(と思い込んでいる)人の主張を、無視できたときに成長を実感した。■

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自分よりも何かにおいて優れているとか、上回っている(と思い込んでいる)人たちの発言に、

今まではいちいち振り回されていた。

 

あの人がAと言えばAで。
その人がBと言えばBだった。

 

「自分の人生を生きることが大事。
だから〜はAなんだ。」
「自分を取り戻そう。〜するとCになるぞ。」

 

と主張する人たちの言葉に従ってきた。

 

自分の人生を、自分の想いを大切にしたかったハズなのに、

結局それを声高に主張している他人の人生観に、他人の哲学に、他人の意見に、

従っていた。振り回されていた。依存していた。

 

だけど、もう今は違う。

 

必要なところは自分に取り入れて、
そうじゃないところは無視できる。 

 

「それについては、私はそうは思わない」
「そこは私とは違う」
「私はこう思う」
「私は私の想いを大事にする」

 

ってね。

 

今まで何か絶対的な強いものを求めていた。

今まで何か絶対的な強い人に従ってきた。

今まで何か揺るぎない答えを探してきた。

 

だけど愛してもらう体験をして、
受け入れてもらう体験をして、  

 

私は私でいいんだと思えるようになった。

そう思えることが圧倒的に増えた。

 

どんなに影響力があるように思える人が鋭い主張をしていても関係ないんだ。

 

だって、その人は私じゃないもの。

 

どれだけ何かすごそうな結果や実績や力があるように見えてもね。
どれだけいかにも正しそうに見えてもね。 

 

その人が唯一絶対の答えじゃない。
その人が唯一絶対の正解じゃない。

 

だって、その人はあなたじゃないから。
その人は、私じゃないから。

 

自分の中で、強い想いになっていることは、

どんなにすごそうな強そうな他人に否定されたって批判されたって、

ブレない。揺るがない。

 

だって、私の中に存在するから。
私の中に、どうやったってどうしたって、存在するから。 

 

あなたの中に存在するから。
あなたのなかに、どうやったってどうしたって何をされたって、存在するものだから。

 

誰かになんと言われようと、
誰にもそれを侵害することなどできない。

 

すごい(と思い込んでいる)人や強い(ように見える)人の想いと、


自分の想いは違うんだって、
自分の想いは自分の想いなんだって、


静かにだけど力強く認められるようになったとき、

なんだか成長したんだなと気付いた。

 

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