Aiko's blog

今日も素敵なすてきな1日を*

■ 本人はネガティブじゃないのに、他人が勝手に「あなたはネガティブだ」と決めつける現象 ■

f:id:aiko__blue:20170123223616j:image

 

そういうのはよくあること。

 

例えば、私が
「私を粗末に扱う人間は嫌い」
という発信をしたとき。

 

その発信を見て、

 

「あ、ネガティブな視点が強いな。
他人の悪いところばかり見ているな。
ネガティブな悪い状態になってるんだろうな。」

 

と決めつける他人もいるかもしれない。

 

だけど、実際の本人は、全然悪い状態ではなかったりする。

 

本人には本人の想いや目的があって、
意識的にそういう発信をしていたりする。

 

それなのに、

「こいつはネガティブで悪い状態になっているに違いない。」

と他人に決めつけられると、

 

「んー、なんか全然違うんだけどなー。。」

とモヤっとした気持ちと寂しい気持ちを感じる。

 

・・・・・

 

「決めつけ」ってよく起こる現象。

 

私自身もしょっちゅう他人のこと決めつけている。

 

「この人はきっと~に違いない」
なんて。

 

それはある意味、自然なことでもある。

 

だって、本人の真相や真意なんて、
言わなければ他人には分からない。

 

言ったとしても、他人には分からなかったりする。

 

前回投稿した、
■ 「見えないもの」を見ようとする姿勢 ■
という記事にも書いたように。

 

私たちの「見えているもの」は、
「省略」された状態のものだったりするから。

 

だから、私も他人も分からなくて当然。
決めつけだって、私も他人も日常茶飯事。

 

だけど同時に、
決めつけることは危険。

 

「こいつは~だろう。」
「こいつは~に違いない。」

 

そうやって、無意識に決めつけ、押し付けている私たち。

 

ほんの少し、その人の表面上「見える部分」だけをかじっただけなのに。

 

実は、その人の真意や想いなんて、
全然確認すらしてなかったりするのに。

 

なのに、私たちは、すぐに決めつけてしまう。

 

そして、自分の主張が絶対正しいと言わんばかりの態度をとってしまう。

 

私も、あなたも。

 

誰かに何かを教える立場の人って、特に、
その決めつけに敏感にならないと、

 

正しい良いことをしているつもりが、
実は正反対の暴力になってしまうことは往々にして、ある。

 

もちろん、自戒を込めて。

 

・・・・・

 

結果を出していたり、人に支持されている人が

「~な人間はダメだ!嫌いだ。」

と発信するのと、

 

他人からみて上手くいっていないと決めつけられやすい人が

「~な人間はダメだ!嫌いだ。」

と発信するのって、

 

実は、何も変わりがなかったりする。

 

だけど、私たちは、

 

偉い人が言っていると
「教訓」「学び」
と捉え、

 

偉くないと自分が無意識に決めつけている人が言っていると
「愚痴」「ネガティブ」
などと判断する。 

 

ぶっちゃけ、どちらも同じだったりするのに。

 

f:id:aiko__blue:20170123223616j:image

■ 「見えないもの」を見ようとする姿勢 ■

f:id:aiko__blue:20170121183526j:image

 

何かを主張すれば、
何かを否定することになることは多い。 

 

けれど、実際には、
様々な背景や条件や環境によって、

 

主張の中身は、

 

枝分かれするもの。
変化するもの。

 

だけど、
限られた時間やスペースの中では、
いちいち細かなことなど説明していられない。

 

だから、
人に何かを伝えたり、
自分の想いを言葉やカタチに具現化するときは、

 

「凝縮」された状態
「短縮」された状態
「省略」された状態
「要約」された状態

 

になることがほとんど。

 

だけど、
他人からは

何がその奥に凝縮されているかなんて、
分からないことの方が多い。

 

見えないところに、

どんな背景があるか
どんな省略があるか

 

なんて、他人には分からない。

 

説明しなければ、
細かいところや、現実に即した想いは
伝わらないことの方が多いのだ。

 

説明したって、
本人の想いが100%伝わるかどうかは
分からないけれど、

説明しないよりは遥かに伝わる可能性が高い。

 

だけど、
毎回細かなところまで説明するなんて、面倒。 

 

だから、分かりやすいカタチになったものだけ
伝えることが多い。

 

他人は往々にして

 

分かりやすい部分
目に見える部分

 

しか捉えない、捉えられない。

それが当然。

 

しかし、それゆえに、
私たちは自分のことを誤解されたり、
他人のことを誤解するのだ。

そして、もどかしさを抱える。

 

けれど、
ここにきて、

この文章を書くのに疲れて面倒になってきた私は思う。
(支離滅裂なのはいつものこと。)

 

伝わる人に、
伝わればいい。

 

と。

 

けれど、

伝わってほしい人に
伝えることを簡単には諦めたくない。 

 

伝わることを願いながら、
伝えることを継続していきたい。私は。

 

その上で、
伝わる人に伝わればそれでいい。

 

数は少なくても、
見えない部分まで分かってくれる人が1人でもいてくれたら、とても心強い。

 

f:id:aiko__blue:20170121183526j:image

■ オムライス食べるなら、あなたと友達でいられない?! ■

f:id:aiko__blue:20170119211941p:image

 

外国を知ると、価値観が壊れる。いとも簡単に。
自分の狭い狭い凝り固まった価値観が。

 

それも中途半端じゃなく、
「世界崩壊」レベルの衝撃を受ける。 

 

強烈な印象なのだ。

明らかに違う、と分かるから。

 

例えば

 

「人と違っていい、人と違うのは当たり前。
自分の正直な意見を主張するのは当たり前。
違っても嫌いにならないし、変にも思わない。」 

 

という「体感覚」が、
外国の人からは伝わってくるのだ。

 

「違ってもいい」という価値観を、
自分と同じ日本人が、努力して身につけた状態とは比べ物にならない。

 

生まれながらにして、
「自分の正直な意見を主張するのは当然」
という価値観が、

 

全身の細胞に染み込んでいるのだ。

 

そんな異文化の体感覚にハッとさせられた今日。
たまたま見つけたYouTubeの動画で。

 

 「外国人に聞いてみた」日本人の女性はCoolになるべき? - YouTube

 

最近読んだ『無愛想のススメ』という本の内容にも通じるなぁと思いました。

 

f:id:aiko__blue:20170119212013p:image

f:id:aiko__blue:20170119212031p:image

■ 病んでいる人は、コーチングよりもカウンセリングへ ■

f:id:aiko__blue:20170111210731j:image

あくまで私の個人的な感覚だけど、

心身ともに健康体(心が前向きな状態)ならば、コーチングが効果的で、
心が弱っていたり不安定になりやすい人は、カウンセリングの方が効果的

だなーと思っている。

(もっと根本的なところで大きな効果があるのは、
リアルな人とのつながりや「愛の実感」だったりする。

ただ今回はその話は置いておきます。)

・・・・・

そもそも、コーチングとカウンセリングは目的が違うから、
合う人の種類が違うのも当たり前なのかもしれないけれど。

ただ、心が不安定だったり迷走しているときって、
何が自分に効果的なのかなんて分からないもの。

そんなときにカウンセリングとコーチングのそもそもの違いなど、知るはずもない。

とにかく、自分が良い状態になりそうな
「精神系のジャンル」
の情報をあさるもの。

私も本やインターネットで精神系の情報をたくさん漁ってきた。

そこで、
人を良い状態に導く手法としてよく見かけたのが、
コーチングとカウンセリング。

どちらの情報にも触れていくうちに、

コーチング系は少し苦しくなるな」
「私にはカウンセリング系の方が合っている」

ということに気付いた。

これは別に、コーチングが悪いとか効果がないなんて言いたいワケでは決してない。
単に、私にとって個人的に、合うか合わないかの話。

当然、他の誰かにとっては、
カウンセリングよりもコーチングの方が遥かに効果的であり、相性がいいだろう。

ただ、私にとってしっくりくる、苦しくなくて心が軽くなると感じられるのは、
カウンセリング系の情報だった。

単に情報の「受け手」としての感覚なんだけど。
一個人の、無知な素人としての受け手の感覚。

コーチングは、松岡修造さんのような感じ。
基本、ポジティブ。基本、前向き。

ネガティブになっていたら、
「おいおいどうしたんだい!君らしくないぜ!ネガティブになってないで人生楽しもうぜ!」
と活を入れてくれる感覚。

カウンセリングは、理想のお母さんのような感じ。
ネガティブな人向き。不安定な人向き。

ネガティブになっていたら、
「どうしたの?そうか、つらかったんだね。大丈夫だよ。じっくり良くなっていこうね。」
と寄り添ってくれる感覚。

コーチングは「そんなお母さんにいつまでも甘えてんじゃないよ!そんなんじゃいつまでもネガティブだよ!」と叱咤激励される感じが若干する。

※あくまで、私個人の感覚です。
感覚には個人差が当然あります。
自分の感覚に従うのが一番です。

・・・・・

ネガティブ気質が強い私にとっては、

コーチングの色が強いと、ちょっとついていけなくなりがちでフェードアウトしちゃう。私にとってはポジティブ過ぎてついていけない感覚が強め。
ネガティブな自分を責めやすい。

カウンセリング色が強いと、「あ、ネガティブでも許してもらえるんだ。大丈夫なんだ。」
と安心できる。自分のペースでじっくり良くなっていける感覚がある。ネガティブな自分を責めないで済む。

とはいえ、これも
誰がどのようにやるかによって受ける印象も違ってくる。

コーチングとカウンセリングの両方の要素を上手く取り入れている方もいらっしゃるだろうし。
その上、単にコーチとクラインアント、カウンセラーとクライアントという関係に留まらず、
「深い愛でつながった仲間」として関係を構築できる方も中にはいらっしゃる。
それはもう、単なるコーチやカウンセラーとは一線を画している。

かといってもちろん、コーチやカウンセラー各自専門の方々も、それぞれ素晴らしい役割がある。
そして、それぞれが必要な人に素晴らしい効果をもたらす。

・・・・・

いろんな情報であふれかえっている今。

何が自分に合うのか、何が自分により効果的なのか、
実際に触れてみて、
「自分はどう感じるか?」を大切にしよう。

ココに書いたことも、
あくまで私1人の個人的な感想。

ココに書いたことが正解じゃない。

あなたはあなたの感覚を大切にしてね。

それがきっと正解。

 

f:id:aiko__blue:20170111210731j:image

■ 依存してもいい。執着してもいい。■

 f:id:aiko__blue:20170107224852j:image

 

依存は絶対ダメだとか、執着は絶対ダメだとか、
必要以上にそれらを突き放そうとする人は、

 

依存心を隠している。
執着心を抑えている。

 

いつも何かを強く否定している人は、
とても支配的な人。
何かをとても恐れている人。

 

過剰な自立は、過剰な依存を呼ぶ。

 

成功者と言われる人の周りには、
依存的な人が多く集まる。

 

「オレの主張は絶対だ!」という人の周りには、
「あなたの言うことが全てです!」という人が集まる。

 

支配者は、依存者に、依存する。

 

支配する人は、依存してくれる人がいなければ、1人で立っていられない。

 

自立しているように見えて、とても依存体質なのだ。

 

多かれ少なかれ、
けっこうみんな、依存してたり執着してたりするよん。

 

人に全く依存していない(ように見える)人も、

 

人への依存を抑圧しているだけで、
人への依存を過剰に恐れているだけで、

 

iPhoneやお酒に依存してたりする。

 

自分は、少しも何にも依存してないと思ってるのかしら。
自分は、少しも何にも執着してないと思ってるのかしら。

 

自立と依存、どちらも誰もが合わせ持っている。 

 

f:id:aiko__blue:20170107224852j:image 

■ 自分よりも影響力がある(と思い込んでいる)人の主張を、無視できたときに成長を実感した。■

f:id:aiko__blue:20170105211926j:image

 

自分よりも何かにおいて優れているとか、上回っている(と思い込んでいる)人たちの発言に、

今まではいちいち振り回されていた。

 

あの人がAと言えばAで。
その人がBと言えばBだった。

 

「自分の人生を生きることが大事。
だから〜はAなんだ。」
「自分を取り戻そう。〜するとCになるぞ。」

 

と主張する人たちの言葉に従ってきた。

 

自分の人生を、自分の想いを大切にしたかったハズなのに、

結局それを声高に主張している他人の人生観に、他人の哲学に、他人の意見に、

従っていた。振り回されていた。依存していた。

 

だけど、もう今は違う。

 

必要なところは自分に取り入れて、
そうじゃないところは無視できる。 

 

「それについては、私はそうは思わない」
「そこは私とは違う」
「私はこう思う」
「私は私の想いを大事にする」

 

ってね。

 

今まで何か絶対的な強いものを求めていた。

今まで何か絶対的な強い人に従ってきた。

今まで何か揺るぎない答えを探してきた。

 

だけど愛してもらう体験をして、
受け入れてもらう体験をして、  

 

私は私でいいんだと思えるようになった。

そう思えることが圧倒的に増えた。

 

どんなに影響力があるように思える人が鋭い主張をしていても関係ないんだ。

 

だって、その人は私じゃないもの。

 

どれだけ何かすごそうな結果や実績や力があるように見えてもね。
どれだけいかにも正しそうに見えてもね。 

 

その人が唯一絶対の答えじゃない。
その人が唯一絶対の正解じゃない。

 

だって、その人はあなたじゃないから。
その人は、私じゃないから。

 

自分の中で、強い想いになっていることは、

どんなにすごそうな強そうな他人に否定されたって批判されたって、

ブレない。揺るがない。

 

だって、私の中に存在するから。
私の中に、どうやったってどうしたって、存在するから。 

 

あなたの中に存在するから。
あなたのなかに、どうやったってどうしたって何をされたって、存在するものだから。

 

誰かになんと言われようと、
誰にもそれを侵害することなどできない。

 

すごい(と思い込んでいる)人や強い(ように見える)人の想いと、


自分の想いは違うんだって、
自分の想いは自分の想いなんだって、


静かにだけど力強く認められるようになったとき、

なんだか成長したんだなと気付いた。

 

f:id:aiko__blue:20170105211926j:image

■ 生きていてよかった。生まれてきてよかった。そう思えるとき。■

f:id:aiko__blue:20170105211028j:image

 

学生時代から、大人になって今に至るまで、
ずっと私は、

 

「変人」「天然」「不思議」
「おかしい」
「人と感覚がズレてる」

 

と言われてきた。

 

いつもみんなに笑われる役。
いつもみんなに小馬鹿にされる役。

 

いつも

 

「うわっ・・・(意味わかんね何してんのバカじゃね)」

 

とか

 

「はぁ?・・・(意味わかんね何してんのバカだろ)」

 

とか

 

「ふっ。(またこの子おかしいことしてるわ。苦笑)」

 

って反応される役。

 

私が誰かの意見に賛同すると、
「中野さんと同じ~?!嫌だなー。笑」
って冗談っぽく反応される。

 

でもそれは、冗談っぽい表現なだけで、

 

「中野さんと同じなんて自分も終わったな。
だって、中野さんておかしいから。(嘲笑/拒否)」

 

っていう本音が多分に含まれている。

 

学校にいても劣等感まみれ。
大人になって社会に出ても劣等感まみれ。

 

今までいろんなアルバイトを経験してきた。
けれど、どの職場でも「劣等感」「無能感」を嫌というほど味わった。  

 

私と同じ職場で一定の期間、一緒に働けばそれは分かる。

 

「この子は、普通の人が普通に理解できることが、中々理解できない。」
「この子は、人と感覚がかなりズレている。困る。」
「一秒前に言ったことを、一秒後にはもう忘れている。」
「目の前や周囲が全く見えていない。」
「頭の回転が非常に遅い。」
「一緒に働きにくい。非常に労力を使う。」
「普通の子ができることが、普通にできない。」

 

それを、学生のときから今に至るまでずっと、
感じてきた。実感せざるを得なかった。

 

どの仕事をしても、
いつも私は遅くて鈍くて忘れやすくてどんくさい。 

 

仕事をするたび、集団の中にいるたび、
自分の無能感を感じざるをえなくなる。

 

人と違う性質。人と違う思考回路。
無能さ。  

どこにいっても、自分の無能さで嫌になる。

 

だから、働くことはそんなに好きじゃない。(もちろん好きな部分も沢山ある。)


自分の無能さとか、「自分の感覚はおかしい。他人にとって迷惑。」という気持ちを味わうことになるから。

 

こんなこと書くと、また誰かから
「自分を特別視する人間は~」と批判されそうで怖いけれど。
(人と感覚がズレている人間、変わってる人間なんて、もちろん私だけじゃない。そんな人沢山いる。)

 

だけど実際、私は今まで色んな人から 

 

「おかしい」
「違う」
「変わっている」
「感覚がズレている」

 

って直接言われ続けてきた。

 

私はそんな自分を、
良い意味で捉えられたことなんてない。 

 

他人に指摘されるときはいつも、
良くない意味だから。

 

小馬鹿にされるときか、嘲笑されるときか、
迷惑がられるときか、困られるときか、
引かれるときか、距離を置かれるときがほとんど。

 

だから間違っても、人と違うらしいということを、
自分は優れているという意味で特別だなんて捉えられなかった。

 

いつも
「自分は劣っている。間違っている。」という意味で特別感を抱いて、
自己否定に自己卑下を重ねていた。

 

みんなの仲間に入れてほしかった。
共感してほしかった。
受け入れてほしかった。
愛してほしかった。

 

みんなに「おかしい」ってバカにされて笑われて、
私の母親も精神病で、母親の兄も精神病院にずっと入院していて家族から疎まれていて、
父親もおじいちゃんも病名こそないけれど病んでるのと同じ自己愛のない性格で。

 

「やっぱりきっと私も病気なんだ」

って学生のときから心の隅で思ってきた。

 

というか、病気になりたかった。
病名を付けてほしかった。

 

言い訳できるから。それのせいにできるから。
逃げられるから。

 

「よかった。私がおかしいのは、病気のせいなんだ。」って。

そうやって安心したかった。 

 

病名がつけば、誰かに強く否定批判攻撃されても、
自分を守ることができるから。

「私は、病気なんだから仕方ないんだ。」って。

 

メンタル強い人は、精神病は逃げだって言うけれど、
そういう攻撃をしてくる人から身を守るためにこそ、

逃げ場が必要だと思う。

 

精神病の病名って、病気って、
逃げ場がなくて困っている人の救いになるって思う。
居場所になるって思う。

 

安心できる居場所があるからこそ、
ゆっくりと自分を良くしていけるから。

 

・・・・・

 

私の感覚はおかしくて
私には常識がなくて
私の思いは間違っていて
私の考えは危険で
私の思想は価値がない 

 

と他人に否定される悲しさと、

 

そうやって自分をバカにしたり見下してくる人間に対する、怒りと悔しさ。  

 

みんなと同じ世界に生きたい。
みんなと仲間になりたい。
みんなに価値があると思われる人間になりたい。
私も仲間に入れてほしい。
受け入れてほしい。
愛してほしい。
だけど、どーせ私なんて・・・

 

という思い。

 

自分の憧れと、自分の無能さ。
自分の理想と、自分の現実。 

 

・・・・・

 

ずっと悲劇のヒロインになって、
「どーせ私は」が心の口癖だった。
今もしょっちゅう出るけど。

 

だけど、そんな私が、
自分を受け入れてくれる人たちと出逢った。

 

こんな私を、認めてくれる人たちがいた。
こんな私を、仲間に入れてくれる人たちがいた。

 

こんな私を、全力で受け入れてくれる人たちがいた。
こんな私を、全力で愛して包んでくれる人たちがいた。 

 

心の底から「生きていてよかった」って感じることができた。
涙がとまらない。

 

嬉しいとかそういう次元じゃない。
言葉には表わせない。

 

ただひたすら涙が出る。

 

ただそれだけ。

 

かけがえのないプレゼント。

 

あいらぶゆー。

 

f:id:aiko__blue:20170105211028j:image