Aiko's blog

今日も素敵なすてきな1日を*

■ 病んでいる人は、コーチングよりもカウンセリングへ ■

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あくまで私の個人的な感覚だけど、

心身ともに健康体(心が前向きな状態)ならば、コーチングが効果的で、
心が弱っていたり不安定になりやすい人は、カウンセリングの方が効果的

だなーと思っている。

(もっと根本的なところで大きな効果があるのは、
リアルな人とのつながりや「愛の実感」だったりする。

ただ今回はその話は置いておきます。)

・・・・・

そもそも、コーチングとカウンセリングは目的が違うから、
合う人の種類が違うのも当たり前なのかもしれないけれど。

ただ、心が不安定だったり迷走しているときって、
何が自分に効果的なのかなんて分からないもの。

そんなときにカウンセリングとコーチングのそもそもの違いなど、知るはずもない。

とにかく、自分が良い状態になりそうな
「精神系のジャンル」
の情報をあさるもの。

私も本やインターネットで精神系の情報をたくさん漁ってきた。

そこで、
人を良い状態に導く手法としてよく見かけたのが、
コーチングとカウンセリング。

どちらの情報にも触れていくうちに、

コーチング系は少し苦しくなるな」
「私にはカウンセリング系の方が合っている」

ということに気付いた。

これは別に、コーチングが悪いとか効果がないなんて言いたいワケでは決してない。
単に、私にとって個人的に、合うか合わないかの話。

当然、他の誰かにとっては、
カウンセリングよりもコーチングの方が遥かに効果的であり、相性がいいだろう。

ただ、私にとってしっくりくる、苦しくなくて心が軽くなると感じられるのは、
カウンセリング系の情報だった。

単に情報の「受け手」としての感覚なんだけど。
一個人の、無知な素人としての受け手の感覚。

コーチングは、松岡修造さんのような感じ。
基本、ポジティブ。基本、前向き。

ネガティブになっていたら、
「おいおいどうしたんだい!君らしくないぜ!ネガティブになってないで人生楽しもうぜ!」
と活を入れてくれる感覚。

カウンセリングは、理想のお母さんのような感じ。
ネガティブな人向き。不安定な人向き。

ネガティブになっていたら、
「どうしたの?そうか、つらかったんだね。大丈夫だよ。じっくり良くなっていこうね。」
と寄り添ってくれる感覚。

コーチングは「そんなお母さんにいつまでも甘えてんじゃないよ!そんなんじゃいつまでもネガティブだよ!」と叱咤激励される感じが若干する。

※あくまで、私個人の感覚です。
感覚には個人差が当然あります。
自分の感覚に従うのが一番です。

・・・・・

ネガティブ気質が強い私にとっては、

コーチングの色が強いと、ちょっとついていけなくなりがちでフェードアウトしちゃう。私にとってはポジティブ過ぎてついていけない感覚が強め。
ネガティブな自分を責めやすい。

カウンセリング色が強いと、「あ、ネガティブでも許してもらえるんだ。大丈夫なんだ。」
と安心できる。自分のペースでじっくり良くなっていける感覚がある。ネガティブな自分を責めないで済む。

とはいえ、これも
誰がどのようにやるかによって受ける印象も違ってくる。

コーチングとカウンセリングの両方の要素を上手く取り入れている方もいらっしゃるだろうし。
その上、単にコーチとクラインアント、カウンセラーとクライアントという関係に留まらず、
「深い愛でつながった仲間」として関係を構築できる方も中にはいらっしゃる。
それはもう、単なるコーチやカウンセラーとは一線を画している。

かといってもちろん、コーチやカウンセラー各自専門の方々も、それぞれ素晴らしい役割がある。
そして、それぞれが必要な人に素晴らしい効果をもたらす。

・・・・・

いろんな情報であふれかえっている今。

何が自分に合うのか、何が自分により効果的なのか、
実際に触れてみて、
「自分はどう感じるか?」を大切にしよう。

ココに書いたことも、
あくまで私1人の個人的な感想。

ココに書いたことが正解じゃない。

あなたはあなたの感覚を大切にしてね。

それがきっと正解。

 

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■ 依存してもいい。執着してもいい。■

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依存は絶対ダメだとか、執着は絶対ダメだとか、
必要以上にそれらを突き放そうとする人は、

 

依存心を隠している。
執着心を抑えている。

 

いつも何かを強く否定している人は、
とても支配的な人。
何かをとても恐れている人。

 

過剰な自立は、過剰な依存を呼ぶ。

 

成功者と言われる人の周りには、
依存的な人が多く集まる。

 

「オレの主張は絶対だ!」という人の周りには、
「あなたの言うことが全てです!」という人が集まる。

 

支配者は、依存者に、依存する。

 

支配する人は、依存してくれる人がいなければ、1人で立っていられない。

 

自立しているように見えて、とても依存体質なのだ。

 

多かれ少なかれ、
けっこうみんな、依存してたり執着してたりするよん。

 

人に全く依存していない(ように見える)人も、

 

人への依存を抑圧しているだけで、
人への依存を過剰に恐れているだけで、

 

iPhoneやお酒に依存してたりする。

 

自分は、少しも何にも依存してないと思ってるのかしら。
自分は、少しも何にも執着してないと思ってるのかしら。

 

自立と依存、どちらも誰もが合わせ持っている。 

 

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■ 自分よりも影響力がある(と思い込んでいる)人の主張を、無視できたときに成長を実感した。■

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自分よりも何かにおいて優れているとか、上回っている(と思い込んでいる)人たちの発言に、

今まではいちいち振り回されていた。

 

あの人がAと言えばAで。
その人がBと言えばBだった。

 

「自分の人生を生きることが大事。
だから〜はAなんだ。」
「自分を取り戻そう。〜するとCになるぞ。」

 

と主張する人たちの言葉に従ってきた。

 

自分の人生を、自分の想いを大切にしたかったハズなのに、

結局それを声高に主張している他人の人生観に、他人の哲学に、他人の意見に、

従っていた。振り回されていた。依存していた。

 

だけど、もう今は違う。

 

必要なところは自分に取り入れて、
そうじゃないところは無視できる。 

 

「それについては、私はそうは思わない」
「そこは私とは違う」
「私はこう思う」
「私は私の想いを大事にする」

 

ってね。

 

今まで何か絶対的な強いものを求めていた。

今まで何か絶対的な強い人に従ってきた。

今まで何か揺るぎない答えを探してきた。

 

だけど愛してもらう体験をして、
受け入れてもらう体験をして、  

 

私は私でいいんだと思えるようになった。

そう思えることが圧倒的に増えた。

 

どんなに影響力があるように思える人が鋭い主張をしていても関係ないんだ。

 

だって、その人は私じゃないもの。

 

どれだけ何かすごそうな結果や実績や力があるように見えてもね。
どれだけいかにも正しそうに見えてもね。 

 

その人が唯一絶対の答えじゃない。
その人が唯一絶対の正解じゃない。

 

だって、その人はあなたじゃないから。
その人は、私じゃないから。

 

自分の中で、強い想いになっていることは、

どんなにすごそうな強そうな他人に否定されたって批判されたって、

ブレない。揺るがない。

 

だって、私の中に存在するから。
私の中に、どうやったってどうしたって、存在するから。 

 

あなたの中に存在するから。
あなたのなかに、どうやったってどうしたって何をされたって、存在するものだから。

 

誰かになんと言われようと、
誰にもそれを侵害することなどできない。

 

すごい(と思い込んでいる)人や強い(ように見える)人の想いと、


自分の想いは違うんだって、
自分の想いは自分の想いなんだって、


静かにだけど力強く認められるようになったとき、

なんだか成長したんだなと気付いた。

 

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■ 生きていてよかった。生まれてきてよかった。そう思えるとき。■

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学生時代から、大人になって今に至るまで、
ずっと私は、

 

「変人」「天然」「不思議」
「おかしい」
「人と感覚がズレてる」

 

と言われてきた。

 

いつもみんなに笑われる役。
いつもみんなに小馬鹿にされる役。

 

いつも

 

「うわっ・・・(意味わかんね何してんのバカじゃね)」

 

とか

 

「はぁ?・・・(意味わかんね何してんのバカだろ)」

 

とか

 

「ふっ。(またこの子おかしいことしてるわ。苦笑)」

 

って反応される役。

 

私が誰かの意見に賛同すると、
「中野さんと同じ~?!嫌だなー。笑」
って冗談っぽく反応される。

 

でもそれは、冗談っぽい表現なだけで、

 

「中野さんと同じなんて自分も終わったな。
だって、中野さんておかしいから。(嘲笑/拒否)」

 

っていう本音が多分に含まれている。

 

学校にいても劣等感まみれ。
大人になって社会に出ても劣等感まみれ。

 

今までいろんなアルバイトを経験してきた。
けれど、どの職場でも「劣等感」「無能感」を嫌というほど味わった。  

 

私と同じ職場で一定の期間、一緒に働けばそれは分かる。

 

「この子は、普通の人が普通に理解できることが、中々理解できない。」
「この子は、人と感覚がかなりズレている。困る。」
「一秒前に言ったことを、一秒後にはもう忘れている。」
「目の前や周囲が全く見えていない。」
「頭の回転が非常に遅い。」
「一緒に働きにくい。非常に労力を使う。」
「普通の子ができることが、普通にできない。」

 

それを、学生のときから今に至るまでずっと、
感じてきた。実感せざるを得なかった。

 

どの仕事をしても、
いつも私は遅くて鈍くて忘れやすくてどんくさい。 

 

仕事をするたび、集団の中にいるたび、
自分の無能感を感じざるをえなくなる。

 

人と違う性質。人と違う思考回路。
無能さ。  

どこにいっても、自分の無能さで嫌になる。

 

だから、働くことはそんなに好きじゃない。(もちろん好きな部分も沢山ある。)


自分の無能さとか、「自分の感覚はおかしい。他人にとって迷惑。」という気持ちを味わうことになるから。

 

こんなこと書くと、また誰かから
「自分を特別視する人間は~」と批判されそうで怖いけれど。
(人と感覚がズレている人間、変わってる人間なんて、もちろん私だけじゃない。そんな人沢山いる。)

 

だけど実際、私は今まで色んな人から 

 

「おかしい」
「違う」
「変わっている」
「感覚がズレている」

 

って直接言われ続けてきた。

 

私はそんな自分を、
良い意味で捉えられたことなんてない。 

 

他人に指摘されるときはいつも、
良くない意味だから。

 

小馬鹿にされるときか、嘲笑されるときか、
迷惑がられるときか、困られるときか、
引かれるときか、距離を置かれるときがほとんど。

 

だから間違っても、人と違うらしいということを、
自分は優れているという意味で特別だなんて捉えられなかった。

 

いつも
「自分は劣っている。間違っている。」という意味で特別感を抱いて、
自己否定に自己卑下を重ねていた。

 

みんなの仲間に入れてほしかった。
共感してほしかった。
受け入れてほしかった。
愛してほしかった。

 

みんなに「おかしい」ってバカにされて笑われて、
私の母親も精神病で、母親の兄も精神病院にずっと入院していて家族から疎まれていて、
父親もおじいちゃんも病名こそないけれど病んでるのと同じ自己愛のない性格で。

 

「やっぱりきっと私も病気なんだ」

って学生のときから心の隅で思ってきた。

 

というか、病気になりたかった。
病名を付けてほしかった。

 

言い訳できるから。それのせいにできるから。
逃げられるから。

 

「よかった。私がおかしいのは、病気のせいなんだ。」って。

そうやって安心したかった。 

 

病名がつけば、誰かに強く否定批判攻撃されても、
自分を守ることができるから。

「私は、病気なんだから仕方ないんだ。」って。

 

メンタル強い人は、精神病は逃げだって言うけれど、
そういう攻撃をしてくる人から身を守るためにこそ、

逃げ場が必要だと思う。

 

精神病の病名って、病気って、
逃げ場がなくて困っている人の救いになるって思う。
居場所になるって思う。

 

安心できる居場所があるからこそ、
ゆっくりと自分を良くしていけるから。

 

・・・・・

 

私の感覚はおかしくて
私には常識がなくて
私の思いは間違っていて
私の考えは危険で
私の思想は価値がない 

 

と他人に否定される悲しさと、

 

そうやって自分をバカにしたり見下してくる人間に対する、怒りと悔しさ。  

 

みんなと同じ世界に生きたい。
みんなと仲間になりたい。
みんなに価値があると思われる人間になりたい。
私も仲間に入れてほしい。
受け入れてほしい。
愛してほしい。
だけど、どーせ私なんて・・・

 

という思い。

 

自分の憧れと、自分の無能さ。
自分の理想と、自分の現実。 

 

・・・・・

 

ずっと悲劇のヒロインになって、
「どーせ私は」が心の口癖だった。
今もしょっちゅう出るけど。

 

だけど、そんな私が、
自分を受け入れてくれる人たちと出逢った。

 

こんな私を、認めてくれる人たちがいた。
こんな私を、仲間に入れてくれる人たちがいた。

 

こんな私を、全力で受け入れてくれる人たちがいた。
こんな私を、全力で愛して包んでくれる人たちがいた。 

 

心の底から「生きていてよかった」って感じることができた。
涙がとまらない。

 

嬉しいとかそういう次元じゃない。
言葉には表わせない。

 

ただひたすら涙が出る。

 

ただそれだけ。

 

かけがえのないプレゼント。

 

あいらぶゆー。

 

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■ 黙れバカっ!- 自分の発言に、縛られない。- ■

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他人の言葉に縛られたくない。
誰かのルールに縛られたくない。

 

自分の言葉にも縛られたくない。
自分のルールにも縛られたくない。

 

過去の発言に縛られたくない。

 

「○○さんが、こう言っていたから・・・(違う意見なんて言えない。。)」

 

「あのときは、こう言ったから・・・(だから反対のことなんて言えない。。)」

 

「この間、自分でああ言ったから・・・(それを平気で破ると、誰かに「言ってることが違うじゃないか!」と批判されそう。。)」

 

・・・そうやって縛られたくない。


他人の発言にも、自分自身の発言にも。

だから、自分自身の言葉やルールにも、
縛られず生きたい。

 

以前の「陰と陽」の投稿にも書いたように、
どちらか片方だけの人間なんていないと思うから。

 

生まれてから死ぬまで一生、
隅から隅まで同じ考えや思いの人間なんていないから。

 

そんな人いたら、そうとう我慢している人だと思う。
いやーん。がまーん。

 

矛盾だらけでいいのだきっと。
他人に「言ってることが違う」って指摘されても、
気にせず今の自分の想いを見つめていきたい。

 

むしろ、一見矛盾だらけなように見えるけれど、
どれも一理あるなって主張をしていきたい。

 

「なにそれ!言ってること違うじゃん!
でも確かにそれも一理ある!」

 

という視点を自分で沢山持てると、
視野が広くなりそう。柔軟になれそう。

 

他人はもちろん、自分の無意識の「制限」もどんどん破っていきましょー。

 

・・・・・

 

自分や誰かを守りたいとき、
言われっぱなしじゃ嫌なとき、
とにかく何か言いたいとき、

 

いざとなったら

「黙れバカッ!」

って言えるような自分でいよーっと。

 

そんで「人をバカにする人間は嫌いって言ってたじゃないか!」と指摘されたら、

 

「そうだバカ!言ってたよバカ!でも今は言いたいんだバカ!」

 

って素直に(?)認めよう〜♪笑

 

もはやバカが語尾になってるだバカ。
そうだバカ!

 

・・・・・

 

私は、いつも反発心が強い。
なぜなら、いつも抑えてきたから。
本音を殺してきたから。

「あれはダメ」「これはダメ」「どれもダメ」ってね。

 

その分、心の中で無視されて溜めこんできた「本音」が
強い反発心となって、いつも私の内側の壁を破ろうとする。

 

そして「本音の自分でも大丈夫」だと思える場所では、
抑えてきたものが見事爆発する。

 

自分の感情を抑えがちな人って、
10代のころに反抗期がなかった人も多いんじゃないかなって思う。

 

私もなかった。
ただし、目に見えるカタチでは、という意味で。

 

外側は、いつもニコニコ。
「愛ちゃんは、いつも笑顔だね^^」と言われたことに誇りを持っていた。

 

だけどホントは違った。
外に出せなかった分、
心の中ではいつでも反抗期。

 

外に出さないよう必死で押し殺していた分、
心の中では火山が大爆発。止まらない活火山。マグマ。

 

ぶくぶく。。バーン!

 

だけどそれは、あくまで自分の内側での爆発。

内側にとどまっていられない本音エネルギー。


それが、反発心となって外に顔を現す。

大人になった今でも、止まらない。

 

私にとって書くことは、
エネルギーの爆発だ。

 

エネルギーの解放だ。

 

自分のために、書いている。バカ。

 

好きなことって、そういうものなのかもしれない。バカ。

 

爆発しすぎて不快な人がいたら、ごめんなさい。
読まないように気を付けてくださいませ。

 

脳内消火活動よろしくお願いいたします。バk…

 

終わり。何書いてるのか分からなくなった。
B・A・K・A☆

 

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■ 滲み出る「その人の人間性」■

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その発信が、公であれプライベートであれ、
その人を表していることには違いない。

 

ちょっとしたときに現れる
「人を見下す姿勢」「人をバカにする言葉」。トゲトゲした雰囲気。

 

そういうのが所々に、垣間見える。

 

一般人だろうと、成功者と言われる人だろうと、それは滲み出てくる。

 

もちろん、私自身もそう。

 

昔の私は特に、
人をバカにしたり見下す姿勢が強かった。
ふとしたときに姿を現わしていた。

 

すごく生きにくかったなーと思う。 

 

・・・・・

 

そして逆に、

 

「人をバカにせず、見下さず、
対等で穏やかな姿勢」

 

が滲み出ている人もいる。

 

あえて名前を出すとしたら、
例えば本田健さん。

 

本田健さんのポッドキャストをよく聴いているのだけど、
どの放送を聴いても、それは滲み出ている。

 

「この人は、人をバカにしていない。見下していない。

 

成功していない人のことも、一般人のことも、
人生に悩んだり苦しんでいる人のことも、
見下していない。

 

いつも、どんな人に対しても、
尊重する気持ちをもって対等な目線で接してくれている。

 

そして、いつも自分自身や身の回りのことを、省みている。」

 

そういうあり方が、滲み出ているのだ。
どの放送を聴いても、その姿勢は一貫している。 


「ふとしたときに、誰かを強くバカにしたり見下したり批判する顔が垣間見える」ということもない。

 

すごい人だなぁと思う。

 

そして、私もそんな人間でありたいなって思う。

 

・・・・・

 

私が尊敬する人は、

 

成功しているのに、結果を出しているのに、
誰かのことをバカにも見下しもしていない人。 

 

成功しているのに、結果を出しているのに、
どんな人も尊重する気持ちがある人。どんな人とも対等に接する人。

 

成功しているのに、結果を出しているのに、
いつも自分自身のことを省みることができる人。

 

そして、もう一つ。

 

世間的な成功もしていないけど、結果も出していないけど、

ただひたすら素直で純粋な人。

 

成功してなくても結果出してなくても、

 

人を見下すことなく、
純粋な優しさと柔らかさと愛を持っている人。

 

そういう人たちを私は尊敬する。

 

私は人をさんざん見下したりバカにしたり、
トゲトゲした心を持ってきたから。

 

自分と同じような他人を見て、
嫌だなぁと思ってきたから。

 

そうじゃない人を見て、
すごいな素敵な人だなって思うのだ。

 

そうじゃない人を見て、
私もそういう人間でありたいなって思うのだ。

 

完璧になんてできなくていいから、
少しずつできるようになったらいいな。☆

 

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■ ココ、テストに出まぁ〜す! ■

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「お前は、しょうもない人間だ。」
=
「オレが、しょうもない人間だ。」 

 

「お前は、バカだ。」
=
「オレが、バカだ。」

 

お前=オレ

 

・・・・・

 

「あなたは、しょうもない人間だ。」
=
「私が、しょうもない人間だ。」 

 

「あなたは、バカだ。」
=
「私が、バカだ。」

 

あなた=私

 

・・・・・

 

お前=あなた

オレ=私

お前=私

あなた=オレ

私=オレ

オレ=私

お前=オレ

あなた=私

 

・・・・・

 

テストに出るので、
よぉ〜く覚えておくようにっ。

 

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