Aiko's blog

今日も素敵なすてきな1日を*

■ 「○○さん(影響力のある人)を尊敬しています!!」から卒業して、自分の本音を優先させよう。 ■

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Facebookで影響力がある人の「シェア」ばかりしている人
・「○○さん」(尊敬する人や、影響力のある人物)の登場回数が頻繁な人

 

以上に当てはまる人は、 

他人の価値観に振り回されている可能性が高い。

 

自分の本音よりも、

 

その尊敬している○○さん、影響力のある○○さんの主張

 

にガッツリ振り回されている可能性が高い。

 

もちろん、自分の軸をしっかり持った上で、
他人のシェアをしたり、他人の名前を出している人も沢山いるだろう。

 

私が今回切り込んでいるのは、そうではない人。

 

「○○さん」の存在、「○○さん」の思想を、
あたかも自分だと思い込んでいる人。

 

「私の/僕の信念は、コレだ!」
と言いながら、その中身は、

 

「○○さんがそう言っていたから!」
「○○さんはすごいから!」
だったりする。

 

・・・・・

 

過去の私がそうだった。

 

尊敬する人やすごいと信じて疑わない人の投稿には、
秒速で「いいね!」を押していた。全ての投稿に。

 

「シェアしてね」と書いてあったら、
秒速で「シェア」していた。

 

「紹介してね」と書いてあったら、
秒速で紹介していた。 

 

結果、私のFacebookタイムラインは、

すごい(と思っている)人のシェア投稿

で埋まっていた。

 

「○○さん」という固有名詞の登場回数、多すぎた。
「○○さん」へのタグ付け、多すぎた。
「○○さん」の紹介、多すぎた。

 

「○○さん」の奴隷だった。

 

そんな過去の私に言いたい。

 

そんな君のオススメする
「○○さん」なんて、全然興味惹かれないぞっ。

 

そんな君がゴリ押しする
「他人から借りた価値観」
になんて、全然共感しないぞうっ。

 

「○○さん」はもういいからさ、
あなたの想いを大事にしなよっ! 

 

「○○さん」は置いておいてさ、
あなたの本音を教えてよっ!

 

あなたは、
「○○さん」の威を借りているだけだよっ!

 

「○○さん」の名前を出せば、
自分が強くなったように錯覚できるからね。

 

「○○さん」の名前を出せば、
まるで自分がその人と同じような影響力をもったかのように錯覚できるからね。

 

「○○さん」の力を、
自分も持っているかのように錯覚できる。

 

「○○さん」の力を自分も持っているんだと、
他人に示せていると錯覚できる。

 

「○○さん」と関わりのある私。
「○○さん」と関わりのあるオレ。

 

「○○さん」を尊敬している私。
「○○さん」を尊敬しているオレ。

 

「○○さんは素晴らしい!」 

 

「○○さん」がすごいのは素晴らしいのは分かったわ。うん。

 

だから、もう「○○さん」を卒業しよう。

 

あなたの想いを大事にしよう。

 

誰の威も借りないで、
等身大の自分で表現している人は、 

 

とっても魅力的だ。

 

それは、○○さんと比べてしまえば、
とっても小さく感じてしまうだろう。

 

けれど、○○さんの威を借りていたときのあなたより、
比べ物にならないくらい輝いている。 

 

そんな等身大のあなたが素敵。

 

・・・・・

 

冒頭で注意書きをしたように、
自分の軸をしっかり持った上で、
他人のシェアをしたり、他人の名前を出している人ももちろん沢山いると思う。

 

だけど、昔の私のように、
自分以外の誰かに無意識に振り回されている人も多いんじゃないかなって思う。

 

私は、自分以外の他人を盲信しやすい。
依存しやすい。

自分の想いを置いてけぼりにしやすい。 

 

他の誰かすごい人、尊敬する人たちの言っていることが、絶対的な正解なんだと思い込んでいた。

 

そして自分の想いをないものにしていた。
自分の思っていることは間違いだって。
自分の感覚はおかしいんだって。

 

とても苦しかった。
もがいて全てを手放すしかなくなったとき、
その状態から脱出できた。

 

自分の正解は、自分の中にあるんだと気づきはじめた。
自分の本心こそに、自分の想いの中にこそ、
自分の答えがあるんだって実感するようになった。

 

そうして、自分の想いを大事にすることを意識し始めた。
すると、どんどん心が解放されていった。
心の重荷がどんどん減っていった。

 

生きるのが前よりとても楽になった。

 

そうか、自分以外の誰かじゃないんだ。

 

よし、自分を大事にしよう。
自分の想いを大事にしよう。

 

○○さんとかすごい人とか尊敬する人も関係ないんだ。

 

そうやって強く意識しはじめた。

 

だから今の私は、
Facebookの投稿では、極力他人の名前を出さないようにしている。

 

シェアだって、本当に自分がいいなと思ったものかつ、自分のタイムラインにも載せたいと思ったものだけにすることを意識している。

 

できるだけ、他人の威を借りないように。
できるだけ、影響力ある人の発言や価値観に、振り回されないように。
できるだけ、すごい人や他人の価値観を、盲信しないように。

 

できるだけ、自分の想いに集中。
できるだけ、自分の想いに忠実に。

 

もちろん、自分の想いというのは、
大なり小なり必ず、他人の影響を受けている。

 

だけど、その想いが、
自分の本心にしっくりきているかどうかが大事ってこと。

 

違和感があるかどうか。
本音かどうか。

 

だから、結果的に誰かの影響を受けた想いだったとしても何も問題はない。

 

自分の気持ちや感覚がどうであるかが大事だから。

 

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■ 「絶対的な味方」に出逢えば、好き放題に生きられる。 ■

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ついつい、自分の気持ちを抑えてしまう人は、
他人に嫌われることを恐れている。

 

他人に嫌われることを、過剰に恐れている。

 

誰か1人にでも嫌われてしまったら、一巻の終わりだと思っている。
「私の人生、オワタ。」と思ってしまう。

 

なぜそんなに恐れるのか? 

 

それは、「自分には絶対的な味方がいない」と思い込んでいるから。
言い換えると、「自信がない」ということでもある。

 

自分自身が自分の絶対的な味方でいてあげられない。
誰か1人でも、自分以外の他に絶対的な味方もいない。

 

自分も他人も、味方じゃない世界。
誰一人として、自分の味方がいない世界。

 

自分ですら、自分自身の味方になってあげられない。

 

そういう世界に生きてしまっている人は、
ひたすら人に嫌われないように振る舞うしかなくなる。

ひたすら愛想笑いをして、ひたすら自分の感情を抑え込む。


そうしていれば、嫌われないから。

嫌われなければ、自分の存在は受け入れてもらえるから。
嫌われなければ、自分は存在していいんだと思えるから。

 

本当の味方などいない(と思い込んでいる)人間にとって、
嫌われるということは、「死」を意味する。

 

だって、味方がいない(と思い込んでいる)から。

 

味方がいない世界で、誰か1人にでも嫌われてしまうということは、
絶望的な出来事なのだ。

 

ただでさえ味方がいない。自信がない。
自分はココに存在していいと思えない。

 

そこに、「あなた嫌い」という他人が発生すると、
いよいよ追い打ちをかけるのだ。

 

「お前はもう終わりだ」
「お前はもう存在するな」

 

と死刑宣告を受けているように感じるから。

 

嫌われてしまうと、どこを頼りに生きていればいいのか分からない。
嫌われると、もう自分はどこに存在すればいいのか分からなくなる。

 

だって、味方がいない(と思い込んでいる)から。

 

嫌われても、味方がいれば生きていける。

 

「嫌う人がいたって、どんなときだって、どんなあなただって、
私はあなたの味方だよ。」

 

という存在こそが、生きる力になるから。
生きる光だから。

 

だけど、そんな存在がいないと思い込んでいるときは、
必死に愛想よく振る舞って、他人に気に入られる自分でいることでしか、
自分を保つことができない。

 

他人に嫌われていなければ、他人に気に入られれば、
自分は存在していいと思えるから。


それ以外に、自分の存在を許可できるものがないと思っているから。
そうすることでしか、自分の存在を肯定することができないから。

 

・・・・・

 

前回の投稿でも少し紹介した
『無愛想のススメ』
という本。

 

「なんか良さそうだな~」と軽い気持ちで手に取った。
自己啓発本とかメンタル系の本は、よく目にしてきたから、
正直そんなに期待はしていなかった。

 

けれど、予想外な結果になった。
予想外すぎる。自分でも驚いている。

 

『無愛想になる』というテーマが、この本の内容が、
あまりにも自分の抑え込んできた感情を呼び覚ましたから。

 

『嫌われる勇気』を読んだときは、こんな風に自分の感情が湧きあがることはなかった。
もちろん、面白かったし興味深い内容だった。
この本にはこの本で、素晴らしい役割がある。

 

けれど、私が必要としていたのは、知識じゃない。

 

自分の奥底に眠っているもの、抑え込み過ぎて感じることができなくなっていたもの。
見えなくなっていたもの。

そういうものを、呼び覚まし、感じること。気づくこと。

 

それが、私の求めていたことだった。

 

きっと、求めている人は他にも沢山いるはず。

 

・・・・・

 

自分を抑えて抑えて抑えて。
自分を殺して殺して。

 

行き場をなくした強い感情は、
どんどん、どんどん、自分の奥底に詰め込んでいった。

 

ぎゅ~~~~~っと。
いつの間にか、莫大な量になってギュウギュウに詰め込まれた感情たちは、
ついに破裂しそうになる。

 

他人や自分への「強い殺意」となるのだ。
そして「強い怒り」となるのだ。

 

塊になった強大な負のエネルギー。
それはもう、どこかに吐くことができる代物ではなくなる。
吐いてしまうと、誰かを不快にさせたり傷つける。

 

ますます、行き場をなくす感情。

 

どこにも行き場をなくした感情は、
とにかく「自分一人で処理しようとする」か「無理やりなかったものにしようとする」。

 

そうして全てが、自分の内側にある、狭い狭い押入れに押し込められていく。

 

そうして自分の気持ちがどんどん分からなくなっていく。

 

・・・・・

 

そんなときに、自分以外の存在によって、
抑え込んでいた感情が解き放たれる。

 

自分以外の存在とは、今回の私のように、気軽に手に取った本かもしれない。
そして、自分以外の「人」の存在でもあるだろう。

 

・・・・・

 

「自分の絶対的な味方」。

 

それは、他人でもあり、自分でもある。
そんな存在と出逢い、そんな存在に気づくこと。
そんな存在に包まれること。

 

そんな存在が、世界にはいるのだ。

 

外に出ていけば、きっとどこかに自分の味方はいる。

 

絶対的な味方に出逢った今の私は、
昔の私よりはるかにイキイキしてる。

 

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■ 無愛想のススメ(恋愛) ■  

 

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愛想がよすぎると、
好きでもない男性から

 

「オレでもいけるんじゃないか?」

 

と勘違いされるから無愛想になるときも必要。

 

自分のことを安く見られた状態で、
勘違いされたままの状態で、

 

「オレは魅力的だぜ」アピールをされても何も響かないばかりか、完全に逆効果。

 

無愛想になれば、
そういう人たちを寄せ付けないので快適。

 

人として好きな人はたくさんいる。
だからといって、男の人として好きとは限らない。

 

「じゃぁ男として好きにさせよう」などとテクニックを使ってしまうと、どんどん遠くなる。

 

・・・・・

 

自然体が一番なので、必要ないとこで無愛想になる必要もない。 

 

自然体でいれば、他人からは、愛想よく見えるときもあるし、無愛想に見えるときもある。

 

昨日『無愛想のススメ』という本を買って読み進めているんだけど、私にとっては色々思うことがカナリ多いテーマだ。

 

『嫌われる勇気』は哲学書寄りな印象だけど、
いま読んでる『無愛想のススメ』は、もっと私たち一人一人にとって身近に感じることができる内容。

 

久々に自分の過去や抑え込んでいた感情とガッツリ向き合わさせられる。

 

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■ 喜んで聞き入れられるアドバイスとは? ■

 

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(※あくまで数ある中の一つの意見です。どの投稿も、どの主張も。正解や答えは人によって違うし、そのときによっても全然違う。全ての意見や主張は、参考とか一例に過ぎないのだと思う。)

 

ズバリ、相手(自分)に対して、「配慮」があるかどうかだ。
相手(自分)に対して、「敬意」があるかどうかだ。

相手(自分)が喜んで聞き入れたくなるアドバイスって、そういうものだ。

 

自分が、相手の立場なら、どんなアドバイスや言葉を聞き入れたいか?
考えれば簡単だ。

 

逆に、意地でも聞き入れたくないアドバイスとか言葉というのは、

 

相手(自分)に対して、「配慮」がないもの。
相手(自分)に対して、「敬意」がないもの。

 

当たり前だよね。

 

一方的に、他人から
「あなたは間違っている。あなたのココがダメだ。今すぐ直せ。」
と言われていい気分になる人はいない。

 

一方的に、他人の視点だけを押し付けられて否定されても、
聞く気にならない。 

 

どんなに悪く思えるような相手にだって、
相手には相手の事情や背景がある。

 

思わず聞き入れてしまうような言葉とか、
喜んで聞き入れたくなるアドバイスって、 

 

そういう「自分の意見や事情や背景を、
気遣ってくれているんだな」って相手に伝わるものだ。

 

「あ、ちゃんと私がやっていることを認めてくれているんだな。
私の気持ちや背景も、ちゃんと見てくれているんだな。

この人は、私を全否定しているワケじゃないんだな。
私の意見も汲み取ってくれようとしているんだな。

その上で、『もっとこうしたら良くなる』ってことを伝えてくれているんだな。」

 

って相手に伝わるもの。

 

そういうアドバイスや注意は、喜んで取り入れたくなる。

 

・・・・・

 

私の職場の先輩や上司の方々は、いつも私のような下っ端アルバイトにも、
愛のある接し方をしてくださる。たとえ、失敗したり迷惑をかけても、だ。

 

いつも「ありがとう」を口癖にされている。
ちょっとしたことでもスタッフに、「ありがとう」と言って下さる。
「ありがとう。」「いつもありがとう。」が口癖。
「中野さんはこういうところが良いね。」と相手の良いところを見てくださっている。
どのスタッフにも、どのお客様にも、そういう丁寧で心のある姿勢。

 

当然、私はその先輩や上司を信頼している。
日々のコミュニケーションの在り方で、信頼関係が構築されているのだ。

 

だから、そういう人からは、
厳しい注意をされたとしても、きちんと受け入れられる。

 

責めているんじゃないっていうのが、きちんと伝わるから。
いつも、愛を根底に伝えて下さっているのが、きちんと伝わるから。
私のことを理解してくださっているのが、きちんと伝わるから。

 

だから、注意やアドバイスを受け入れられる。

 

・・・・・

 

私は今、飲食店で働いているのだけど、
お客様からのクレームというのはときどき耳にする。

 

そのクレームというのだって、やはり違いがある。

 

私たちは、お店のスタッフだから、
クレームを言われる立場。

 

そこで思うのはやはり、
お店側やスタッフ側に対して、愛や配慮があるクレームかどうか?
で受ける印象がカナリ違うな~ということ。

お客様の言い方や態度によって、全然印象が違う。

 

「おたくのお店は大好きなの。だからこそ、~な点は少し残念だったわ。」
「スタッフの人もみんな忙しいタイミングなのは分かるけれど、もう少し~してくれたら嬉しかったな。」

 

などと、穏やかな姿勢で、こちら側にも愛や配慮や敬意をもって伝えていただくと、
むしろ「伝えてくださってありがとうございます。」「よし、これからは~なときは気をつけよう。」と素直に思える。

 

逆に、「オレは客やぞ!オレの言うことを聞け!お前の店は間違っている!オレが絶対正しい!」というような姿勢でなにか言われるときは、
けっこう理不尽で、自分本位な要望なことが多い。

 

もし筋の通った内容だったとしても、そういう態度で言われたことって、
誰だって素直に聞き入れたいとは思えない。

 

当たり前といえば当たり前の話だけど。

 

・・・・・

 

どんな相手にも、相手なりの事情や立場や意見や想いといったものがある。
どんなに悪人のように見えるひとでも。

 

もちろん、私たちは聖人君主じゃないから、
いつもどんなときも、どんな人に対しても、思いやりをもつとか、
相手を受け入れようとするのは実際難しいっていう場合もたくさんあると思う。

 

私なんてもうさ、まだまだ他人や自分に対して否定批判だらけだし。笑

 

けれど、ほんの少しでも相手を見ようとか、相手を認めようと意識できたら、
ほんの少しでも相手との関係は改善されると私は思うんだ。

 

・・・・・

 

あとは、他人に何か頼んだり、要望を伝えるときは、

 

自分のプライドをゼロにした状態で、
徹底的に相手の良いところを認めれば、

案外コロッと聞いてくれたりする場合もあると思う。

 

頑固で人の言うこと中々聞き入れようとしない人、プライド高くて融通が利かない人ほど、
案外そういう態度で接するとコロッと聞いてくれたりするから。笑

 

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■ 比べるから素晴らしい。違うから素晴らしい。 ■

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ものごとは何でも、

 

善と悪、白と黒、上と下、0と100、マイナスとプラス、右と左、美と醜、ネガティブとポジティブ、強さと弱さ、苦と楽、生と死、愛と恐れ、陰と陽・・・

 

といったように、

 

反対のものを併せ持つ
両方を受け入れる
どちらも自分にあると認める 

 

からこそ、いろいろと見えてくるし生きやすくなるんじゃないかなって思う。

 

(ちなみに、例えば白が善とは限らないし、黒が悪とは限らない。ネガティヴが悪とは限らないし、ポジティブが善とも限らない。 

 

白と黒、どちらも悪にも善にもなりうる。
ポジティブとネガティヴ、どちらも悪にも善にもなりうる。

 

さらに言えば、悪は善にもなるうるし、善は悪にもなりうる。) 

 

比べず生きていたいと思うのは、
「比べる」ことの「陰」の部分を意識したとき。

 

だけど、比べることには「陽」の部分もある。

 

比べるからこそ、自分や他人の違いが分かる。 特徴が分かる。
比べるから、自分や他人の良さが分かる。

 

全員が全く同じ人間だったら、
誰一人として自分の特徴などなくなる。

 

全員が全く同じ人間だったら、
自分の「得意」「不得意」もなくなる。 

 

男の人がいるから、女の人は自分の違いを意識する。
女の人がいるから、男の人は自分の違いを意識する。

 

全員が男だったら、女はいない。
全員が女だったら、男はいない。

 

男と女という区別や違いもなくなる。

 

誰かが不得意だから、誰かが得意になる。
誰かが得意だから、誰かが不得意になる。  

 

全員が不得意なら、得意な人はいない。
全員が得意なら、不得意な人はいない。

 

得意・不得意という区別や違いもなくなる。
全員が得意なら、それは得意とは言わないから。
全員が不得意なら、それは不得意とも言わないだろうし。

 

違いがなければ、全て同じ。
全て同じなら、違いはない。どれも同じ。

 

・・・・・だけれど結局、
どちらか一方の特徴「だけ」を持っていることは少ない。

 

反対のものを常に誰もが、何もが、
持ち合わせている。併せ持っている。 

 

女の人の中には、男っぽい一面が必ずある。
男の人の中には、女っぽい一面が必ずある。

 

これも、「女」と「男」という区別をするからこそ、生まれる概念。

 

光の中にも、影がある。
影の中にも、光がある。

 

光があるのは、影があるから。
影があるのは、光があるから。

 

よく言われる例えだけど、これも光と影という違いを意識するからこそ、生まれる考え。

 

違うんだけど、みんなどちらも併せ持っている。

だから結局、同じとも言える。

 

影と光、どちらも私。
影と光、どちらもあなた。

 

私とあなた。

 

私と私。

 

あなたとあなた。

 

影と光である。
光と影である。

 

影と影である。
光と光である。

 

どちらも私。


どちらもあなた。

 

私。あなた。

 

私とあなた。

 

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■ 人と比べず生きていたい。誰もが自分が1番。 ■

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誰かが
「こんなことがあって悲しかった」
と嘆いていたら、

 

「オレの方がこんなに辛いことがあった」
「私の方がこんなに苦しいことがあった」
と主張したくなる。

 

誰かが
「こんなことができて嬉しかった」
と喜んでいたら、

 

「私の方がこんなに凄い結果を出した」
「オレの方がこんなに凄いことを成し遂げた」
と主張したくなる。

 

そういう心の動きは、
実は日常的に、無意識に、頻繁に生じている。

 

私自身もあなたや誰かも。

 

私の経験や想いや結果というのは、
私1人のマイワールドでは、
唯一無二の存在。
誰とも何とも比べられないもの。

 

けれど、人と比べてしまえば、
正直私には何一つ飛び抜けたものなどない。

 

誰かを見たり誰かの話を聞いては、

 

「どーせ私はそこまで苦しい経験なんてしてないし」
「どーせ私はそこまで秀でた結果なんて出したことないし」

 

といちいち卑屈になるクセ。

 

人を見下すことも、人に見下されることも、
どちらももうお腹いっぱい。

 

それなのにまだまだ、こびりついている頑固なクセ。

 

ほんと、不必要でいらないもの。
ほんと、どーでもいいこと。

 

どうでもいい価値観の世界から、
これからも少しずつ、抜け出していこう。

 

比べる他人も比べる自分も、
しっかりと受け入れながら。

 

比べることをゼロにすることはたぶん難しいし、ゼロにする必要もないだろうけど、
もっと楽になれたらいいなって思う。

 

でも少しずつ色んなことを受け入れて認めて手放せるようにもなってきたし、自己肯定・自己受容もできるようになった。

 

だから前よりカナリ楽。

 

・・・・・

 

今の職場もあたたかい愛のある人たちばかりで、本当に日々救われている。

 

私はどこにいっても、どんくさいし、すぐ忘れるし、すぐ頭が真っ白になって飛ぶしフリーズするし、冗談抜きで頭の回転が超遅いし、ふつーの人がすぐに理解できることが中々理解できないことが多くて他人の時間と労力を奪ってしまうし、他人が当然のように持つ常識のような感覚と私の感覚はだいぶズレているらしいこともあって周囲の人を困らせたりする。

 

別にこういった特徴は、もちろん私だけに限ったことではないけれど、
「仕事」という環境においては、いつも自分の存在理由を見失いがち。

 

プライベートではただ存在しているだけでいいかもしれない。

 

けれど、仕事という環境の中では、
利益に貢献する必要があり、
求められている役割や作業をこなす必要がある。

 

ある一定の求められている基準までは最低限、全員が役割を果たす必要があるのが仕事。

 

そこで
「私はどんくさいし、すぐ忘れるし、頭が悪くて中々理解できないから、求められている基準を満たせません」
という『言い訳』は許されない。

 

「それが仕事で、それでお給料が発生するんだから、できないんなら、言い訳するなら、
今すぐ辞めろ代わりはいくらでもいる。」
というお話になる。

 

私のような人間は、
ひたすら単純作業だけするような工場や事務の仕事に就いていれば良いのだろうけれど、

そういうところでずっと働いていると頭が狂いそうで、ずっと閉じ込められていて、嫌で仕方なかった。ただのワガママと言えばそうだ。

 

かといって、少しでも臨機応変さや柔軟さがスピーディーに問われる仕事では、
私の短所がすぐに姿を現して
「キミはここに存在しないほうがいい」
「キミはここでは無価値だ不必要だ」
と強く訴えてくる。

 

比べなくていいとはいえ、
仕事では一定の基準を全員がクリアすることが求められる。

 

あの人はできてるけど、この人はできなくてもいい、というワケにはいかない。
(単純に仕事としてという意味でも、人間関係という意味でも。)

 

だってそれは、仕事だから。

 

自分の裁量次第でどうにでもできる起業をすればいいとはいっても、
実際のところ生活できるレベルまで自力で稼いで、稼ぎ続けるというのは、生半可なものじゃない。今の私にはそういう意欲がない。

 

このような今の私には、
とにかく今のありがたい恵まれた職場環境で、

少しでもできることを増やし、
少しでもミスを減らし、
少しでも貢献できることを増やし・大きくし、
少しでも過去より今の成長を増やす・大きくすることしかない。

 

言葉で言うだけなら簡単だしすごく綺麗だけど、
実際は本当にどうしようもなく些細で小さくて失敗だらけの毎日なのだ。

 

本当に今はいろんな人と環境に恵まれていて、
失敗だらけでも見捨てずにいてくださるから、
くじけそうになっても前を向いていようと思えるし、
これからもゆっくり、ここで自分を成長させていけたらいいなって思う。

 

「『〜したい』『〜できたらいいな』『〜と思う』という言い回しなんかじゃ覚悟足りない、そんなの達成できない」っていうエリート思考は、今の私には必要ない。

 

・・・・・

 

自分よりも色んな意味ですごい人なんて、
腐るほどいる。
むしろそういう人の方が圧倒的に多いという事実。

 

その事実を、もっとしっかり受け入れて認めていこう。
その上で、私の世界・マイワールドの経験、想い、結果をしっかり認めてあげよう。

 

それができ始めると、なんだかとても健康的に生きていける気がする。

 

誰もが、自分が1番。

 

ただ一つ自分の世界の中で、唯一無二の1番の存在と想い。

 

それでいい。

 

かっこいいようなこと書いちゃったけど、
あくまで内側にある世界の意識の話。

 

・・・いつものように話がどんどん逸れて飛んでいきました。私は何を書こうとしていたのだろう。ココはどこかな。宇宙のようだ。終わり。

 

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■ 真面目メガネくん、松岡修造にやる気ないバイト。そしてギャル。~「あったかい/つめたい」をめぐる物語~ ■

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A子:「なにコレ?超~あったかぁ~いんだけどぉ〜〜〜。」

B子:「ほんとだマジうけるぅ~。超~つめたぁ~い。あったかぁ~い。」

 

真面目メガネくん:
「こらこらそこの君たち。そんなハシタナイ日本語を使うのはやめなさい。
正しいのは、『あたたかい』『つめたい』ですよ。まったく僕には考えられない言葉づかいですね。」

 

やる気ないバイト:
「あー今日もバイトかったりぃー。自販機いかがっすかー。あったかーい。つめたーい。
あー誰か可愛いねーちゃん俺のフタを・・・(以下略)」

 

松岡修造:
「気合いだ!あったかい!つめたい!
いち、に、さん、だー!!(アニマル浜口アントニオ猪木がなぜか混ざる修造。)」

 

・・・・・

 

まず言いたい。修造さん。
私の乏しいユーモアセンスは貴方のおかげで助かっております。ありがとうございます。アーメン。合掌。無宗教。

 

…そんなこんなで自分の文章を見返していたら、
「あったか~い/つめた~い」が

 

『語尾を不必要にのばすギャル』

 

に見えてきた愛子ですこんばんは。

 

松岡修造とやる気ないバイト、という話の流れから、
「あったか~い。つめた~い」を読むと、
語尾を不必要にのばすギャルに見えてきてしまったのです。
天然系ほんわか女子でもいいか。

 

ついでにそこから
「あったかい。つめたい。」が真面目メガネくんにも見えてきた。
メガネのフレーム位置を指で不必要にキリキリッと正す真面目メガネくん。

 

なんだかネタにできそうだなと思い、試しにちょっとだけ書いてみた。(自己満足)

 

これ以上書く意欲は、ない。

 

今日も野菜たっぷりあったか~いポトフが美味しかった。


「コンソメスープ」じゃなくて「ポトフ」って言いたいだけ。それだけ。

 

ぽとふ。

 

終わり。

 

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